見出し画像

煩悩抑制学総論

誰か良いタイトルの付け方を教えてくれませんか。
恥ずかしい話、noteのタイトルを考えるのに時間を費やしている。私の創造性では架空の講義名を模すのが限界である。
しかし、最近そんな私の記事を読んで下さっている人がいることも分かって、いっそうこの自分語りに精が出ている。
当初は自分を理解するために書き連ねていたこのnoteが評価を受けているという事実は単純に嬉しい限りである。

ゆえにタイトル一つでも本当は妥協したくないところである。コメントで来たものはそのまま盗用するため、お覚悟を。

ところで、noteには有料記事なる機能があるようだ。
私のnoteは自己満足に終始しているだけであって、有料たりえるタイトルと内容ではない。

その点、多くの有料noteはタイトルやレイアウトも工夫されており、金銭が支払われるに相応しいものといえるであろう。

ところで、我々にとって食料品は生きるために不可欠であるし、税金を払うのは義務であるから当然必要費となる。
これらは生活に欠かせないものであるから、しばしば「生活費」に峻別される。
それ以外の享楽や趣味に使うお金は「嗜好費」としてみなされる。

我々は「生活費」だけ賄えば生きていくことが出来るようににも思えるが、人々は「嗜好」に何を見出し、何に対価を支払っているのであろうか。

対価というのであれば、価の対になるものがある。

私が思うに、それは「時間」である。

例えば、本というものは人類にとって極めて偉大な発明品である。原初の製紙法から活版印刷術の発明などは、歴史の根幹を支える極めて重要なイベントであった。
根幹を支えるというよりかは、本がなければ歴史は存在しなかったという方が正しいであろう。

もしもタラス河畔の戦いがなかったら、大航海などなかったら、我々の現在の歴史は今から数世紀ほどずれていたかもしれない。
学術の後継が行われず、1世代ごとに終わりを迎え、新たな天才が世に出るのを待つしかない。
フェルマーは余白がない事を憂い得ない。

こうした変遷を経た我々は、先人が莫大な時間を費やした秘伝の研究にろ過を重ねたエッセンスだけを入手することができる。
ただの1ヵ月働いて得た対価を払うだけで何百年の業物を入手できるのだ。
これは本に限った話ではなく、大抵の嗜好たる芸術品も同様であろう。

では無形のサービスはどうであろうか。
インターネット上のデータ伝達は数百キロ間が3秒で済む。
図書館の数百冊を1秒でテーブルの上に用意できる。

課題をこなしていて、気付いた時にはご飯を作ってくれて、見知らぬ人が持ってきてくれる。
その逆もまた然りである。有限な人生の時間を削ってまで他人の食べ物を調理し、運ぶという行為は一切が当人にとって無用であるから、当然その対価が生ずる。

この「逆」の思考法は非常に重要である。

あまり直視したくないことではあるが、
最期のベッドで望んだ「あともう数時間」は「現在の数時間」に置換可能である一方、両者は不可逆の関係にあることには注意を要する。
「何だったのか分からないあの時間」をカット&コピーして、人生最期の「末尾たりえた時間」にペーストすることはできない。

この思考は自分の意思に反する状況について判断を下す際に非常に有効である。

時間は何故守られなければならないのか。
相手が遅刻している時間、貴方は待つ以外の何をすることもできないという制約が生ずる。 その制約を受ける時間はあなたが将来望む「末尾たりえた時間」かもしれないのである。
時間は金銭的に換価できないのだから、これは極めて深刻な事態なのである。

しかし、一見合理的なこの思考も万能ではない。
「家族サービス」という言葉があるが、そのサービスに費やす時間を切り捨てることは文字通り首を絞めることになりかねない。

「末尾たりえた時間」がこの上なく愛おしいのは、この世界に対する未練によるものであると考えられる。
単に合理性の観点に照らして「家族サービス」を排すると、その最期は容易に想像がつくところである。
孤独を長らえる程辛いことはない。
「末尾たりえた時間」は望むべくもない。
合理性が常に最善の結果をもたらすとは限らないのである。

主張する私自身、どこか詭弁であるような気がしているこの見解であるが、友人や家族に話しても未だ有力な批判が得られていない。

ただ一つ明らかであることは、この文章を執筆する時間は確実に「末尾たりえる時間」であり、書いている途中に矛盾を覚えた。

結局のところ、人生は不合理のパッチワークのような現象であり、合理性のみで成形しようとしても何処かでエラーが生ずる。
考えすぎるのも考えものという訳である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?