ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑲
あらすじ
主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
第4章は美濃攻略です。木曽川以外に両者を分ける障害物が無いのに、信長は美濃攻略に7年もかけています。それは何故なのか?周辺各国の情勢や同盟関係など、様々な要因が複雑に関係しているようです。
第4章 美濃攻略
~組織論をふまえて~
第7節 物流に工夫を(4P)・墨俣城築城
墨俣一夜城は、後日の創作と言われる。信長公記に記載がないからである。しかし、武功夜話では、洲の俣城を3日で築城したと記載される。太田牛一は知らなかっただけで、武功夜話は前野家が秀吉に仕えていた事からその話ができたとの解釈は可能である。もちろん、前野家が主君・秀吉を持ち上げるために創作したと考える事もできる。
なお、武功夜話には、洲の俣は2回出てくる。ひとつ目の「国境の洲の俣」は石積みで作業したが長井の軍勢と合戦しながらの築城であったため、1560年から2年かけても築城できず引き払ったと言う。場所は斎藤義龍の時代の国境である。信長は、森部の戦い(1561年)で、森部・墨俣・十四条と攻め込んでおり、この墨俣は敵地に入った場所ということになる。よって、1560年の国境ではない。一緒に記述される信長の出陣を森部の戦いと見なせない事もないが、森部の戦いは斎藤義龍の死去に伴うものであり、出陣理由が異なり別の戦いと考える。すると森部の戦いの「墨俣」と「国境の洲の俣」は別の場所と考えられる。
ふたつ目の「敵地に侵入し築城した洲の俣」は三日三晩で作ったと言い「馬止めの柵を結いまわす」とあり石積みではない。国境は斎藤龍興の時代のものである。義龍時代から国境が変っていなければ、現在の墨俣は明らかに敵地であり、表現が一致する。大柿城(大垣)と稲葉山城のほぼ中間に位置し、稲葉山城から距離にして約10km程度である。確かに拠点として手頃な位置にあり、「墨俣」はふたつ目の洲の俣「敵地の洲の俣」と考えて良さそうである。
よって、二つの「洲の俣」は、場所が違う事になる。そこで洲の俣は地名ではなく、地形と考えてみる。つまり、二つの川の合流点にある洲を意味すると考える。そして、川並衆(河内衆)が洲の俣築城に粉骨砕身したのだから、川を使った何かを行ったと推測できる。
竹中半兵衛が稲葉山城を占拠して以来、斎藤龍興に愛想を尽かした者が続々と織田方に内通していた。
その一つが加治田城の佐藤紀伊守とその息子右近衛門であった。美濃方の長井道利は、それを察知して堂洞に砦を構え、加治田城を攻めようとした。そこで信長は軍を出し、先に堂洞を落とした。
こうして東美濃は斎藤龍興の居る稲葉山城(西美濃地域)から完全に分断され、信長の支配地域に併合された。そして、いよいよ稲葉城攻めである。
「また、潰されよった」
「何がですか?」
「砦よ。大柿城(大垣)と稲葉山城の間に砦を作ろうとしとるが、形になる前に潰される」
「そりゃ敵地ですし、丸見えですからね。必要ですか?」
「わしの父が、胡蝶の父を攻めた時は、拠点がなかった。だから、やられた。稲葉山城は堅い城だからな。同じ轍をふみとうない」
信長の父・信秀が攻めた加納口の戦いでは、拠点を作らずに稲葉城を攻め、落とせずに撤退しようとして大損害を受けた。斎藤道三の策にハマったのである。その後、信長も一度、半兵衛にしてやられている。これらの反省を踏まえ、手頃な距離に拠点が欲しいのである。
「なるほど。では、もう少し作り易い所に作っては?」
「ここが急所なのだ」
信長が指さした場所は大柿(大垣)と岐阜のほぼ中間にあり、西美濃との連絡を分断する事ができる。この時既に美濃三人衆の安藤守就、稲葉一鉄(良通)、氏家卜全が内通しており、大柿より西は主力の多くが調略済みである。この地点に拠点ができれば、内通者たちを稲葉山城の斎藤龍興本隊から隔離できる。家族の身の安全を保証できる。東美濃に対する堂洞城と同じ機能を持つ。しかし、手頃に近いゆえに、築城しようとすると美濃勢に妨害されるのである。
「どうやっているか聞いても良いですか」
「大八車に木材を載せて持ち込み、組み立てる。組み立てたら兵を配置して守らせる」
「でも、組み立てられないのですよね?」
「うむ、組み上がる前に攻められて潰される」
「現地で組み上げているのですか?」
「他にあるまい。砦を運ぶことはできん。運べるような砦は軽過ぎて意味が無い」
「組むのにどれくらい時間がかかるのですか?」
「そうよな、少なくとも7日程度はかかる」
「もう一度、場所を教えてください」
「ここだ」
信長は、稲葉山城と大柿城の丁度中間を指さした。
「少し場所を変えれば、手があります」
「どこだ」
「ここです」
胡蝶は、長良川と木曽川の比較的大きな支流が合流するYの字になっている地点を指さした。
木曽川は氾濫によって流れが何度も変わっている。この時代、木曽三川は濃尾平野を網の目のように流れていた。標高は高い方から木曽川、長良川、揖斐川の順であり、木曽川の支流は長良川に合流していた。
人々は網の目の一つ一つを堤防で取り囲み、集落や耕地の水害を防止してきた。こうした堤防で囲まれた地域を「輪中」と言う。江戸時代以降の治水工事により、木曽川と長良川は現在に近い流れになっている。
「何故、ここが良い?」
「木曽川の上流から物資を流せます」
「だが組み立てるのは同じよな」
「いいえ。犬山で事前に組み立てて、流します」
「ほう。だが、砦となれば、川から引き上げられないだろう?」
信長はまだ疑心暗鬼だ。
「もちろん完成形で流す訳ではありません。それでは大き過ぎます」
「そうだろうな」
「ええ。現地で組み立てる作業が最も楽になるように分解して、流します」「ふむ・・・」
「大八車には乗らない大きさでも、川を流れれば良いのです。運ぶには重くても、木材は水に浮きますから問題はありません。現地で引き上げられる程度の大きさであれば良いのです。引き上げて、その場で固定します」
「なるほど。そうすると、川並衆(河内衆)の出番になるな。運搬から組み立てまで、川並衆を指揮できる者が必要だな」
「そうなりますね」
川並衆とは木曽川流域の土豪であり、木曽川を利用して材木の流通などを生業としてた者たちとされる。
「(蜂須賀)小六か、(木下)藤吉郎か。実力は小六だが前に出ようとせん。指揮させるなら藤吉郎になるな」
「藤吉郎はどうも小賢しくて・・・」
「そう言うな。必死なのだろう。農民上がりだからな」
信長は笑った。
武功夜話には、洲の俣築城の様子を次のように伝える。
犬山城近くにて木々を「馬止めの柵」に組み上げ、それを筏として川並衆が操作して目的地まで流す。現地では先に濠を作り、そこにタイミング良く到着した馬止めの柵を引き上げる。馬止めの柵を濠に差し込むように立てて並べたら、柵と柵を紐で結い廻して固定する。
それでも敵に見つかれば、妨害に来ることは分かっている。そこで、雨の日を選んで作業を始めた。雨は土を泥に変え重くなる。水に濡れると体温を奪う。作業自体は苛烈なものになったが、雨のおかげで見つかる事無く作業ができた。こうして狙い通り墨俣に砦(城)を築く事ができたのであった。
墨俣城ができると、かねてより誼みのあった西美濃三人衆も参じてきた。胡蝶が再会に喜んだのは言うまでもない。
美濃姫・胡蝶の存在は信長の美濃支配を正当化する理由になる。武田信玄の言質をとった。そして東美濃が信長の支配地域になり、西美濃の中心となる三人衆が信長に恭順した。
これでついに斎藤龍興は孤立無援となり、稲葉山城を出て一向一揆の河内長島(三重県桑名・伊勢長島)へ落ち延びていった。
ドラマや小説などで描かれる程に、実際の斎藤龍興が出来が悪かったのか判断できない。しかし、人心が離れてしまっていた事は間違いない。これほど次々と人心が離れるのは何か問題があったのだろう。
そこへ美濃支配の正当性を主張できる美濃姫(胡蝶)を正室とする信長である。しかも甲尾同盟で武田信玄が信長の美濃侵攻を言外に認めた。そのため、離反した家臣たちは信長になびいた。こうして信長は、大きな戦いを経ることなく、美濃侵攻を成功させたのだった。信長が美濃を制圧した事を聞いて、武田信玄に対立する上杉謙信は十月十三日付で信長に祝賀している(『大阪城天守閣所蔵文書』)。
4Pとはマーケティングミックスとも呼ばれ、以下の4つのPからなる。
Product(商品戦略)
Place(流通戦略)
Price(価格戦略)
Promotion(販売戦略・販促戦略)
なお、参考までに著者は、これに
Protection(参入障壁、知財戦略など)
を加えて5Pとして考えるようにしている。
ベンチャーや新規事業においては、議論は商品戦略(どんな製品・サービス)に始まり、マネタイズ(価格戦略)やプロモーション(販促戦略)に議論が集中しがちである。物流が事業の根幹となる小売り業や運送業を除き、調達や物流など流通戦略が議論の中心になる事はあまりない。しかし、ものつくり系の事業においてはコストに大きな影響があり、どのように在庫を持つか、発注のタイミングをどうするか、等は実は大きなポイントである。
例えば、顧客が色を選べるとする。受注から納品までのリードタイムが短い方が販売に有利だからと色付け後の完成品で在庫を持つ。すると販売予測が外れた時に売れ残り(不良在庫)になる。在庫を多く持つとコストが上がる。逆に、受注してから調達を始める。すると顧客の手に届くまでのリードタイムが長くなり、失注するかもしれない。だから、通常はその中間をとって、色付けの前の部品で在庫を持つ。受注状況を見て色付けしていくと売れ残りの無駄が減る。適正な在庫量の見積もりも重要である。
この物語で、胡蝶が提案したのが物流戦略である。事前にある程度組み立てる事により、丁寧に作業出来て結果的に品質が向上する。現地での組み立て時間を短縮し、敵兵の妨害の機会を減らす事ができる。それに川を利用する事で運搬サイズの制約を無くした。現代で言えば、ユニット工法と呼ばれる戸建て住宅の建築方法である。
許容できるリードタイム(機会損失・サービス品質・調達リスク)と在庫コスト(原料部品・仕掛品・メンテナンス用部品などの保管費と資産増加分が利益と見なされることによる税金を含む)のバランス調整とその工夫を含めて流通戦略なのである。
これまでも敵大将は見逃す事が多い信長だが、やはり稲葉山城攻めでも敵大将の斎藤龍興や長井隼人を逃がしている。恐らく信長にとって敵大将の首は手段であって目的ではないように思われる。城や領土を取る、戦に勝つために敵大将の首を狙う。だが、目的を達したら敵大将の首に興味はない。特に上洛までの信長の戦いや行動には冷酷で残忍なイメージは感じられない。むしろ、豊臣秀吉や徳川家康に比べれば、非常に甘く見える。
(次回から5章。ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑳に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)
参考:第4章
書籍類
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上 横山住雄・著
武田信玄と快川紹喜 横山住雄・著
天下人信長の基礎構造 鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
近江浅井氏の研究 小和田哲夫・著
富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記
三好一族と織田信長 天野忠幸・著
属人思考の心理学 岡本浩一・鎌田晶子・著
インターネット情報
小氷期
https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
六角承禎条書https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.4.pdf
天文法華の乱https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
三井寺(園城寺)
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/ct.htm
地図
今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/index.html
木曽三川(きそさんせん)の洪水と治水の歴史
https://www.water.go.jp/chubu/nagara/21_yakuwari/rekishi.html
Wikisouce: 美濃国諸旧記 編者)黒川真道
Wikisouce: 濃陽諸士伝記 編者)黒川真道
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