ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑦
あらすじ
主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
第3章は胡蝶輿入れ後から岩倉城の戦いまでの尾張統一を描きます。時期は1章と2章の間になります。信長さんと胡蝶さんの苦難の道のりです。いわば、ベンチャー企業の産みの苦しみです。今川氏に仕掛けられて対応しているので、どうしても、戦略より受け身対応になります。
第3章 尾張統一
~弱者の生存戦略~
第1節 やるべき事をしっかりやる・織田信秀の急逝
信長に輿入れしてから、胡蝶と信長の仲は悪くない。だが、信長は相変わらず外に出かけては合戦ごっこや市井の生活を見て回っており、交流は少なかった。まだ、胡蝶は人質、あるいは、お客様扱いなのかもしれない。
そんなある日、久しぶりに信長とゆっくり話す機会ができたのだった。
「信長様、尾張はどのような状況なのでしょうか?」
「どうした?改まって。マムシ殿から何かあったか」
にやにやと笑いながら信長が聞き返した。意図的に自分の立場が上にあると意識させる言い方だった。
「そんな処です。随分と今川に虐められているようだが尾張は大丈夫か、と心から心配する密書が届きました」
胡蝶も負けずに、嫌みたっぷりに言い返した。
胡蝶は美濃斎藤家が尾張織田家に差し出した人質という面がある。そんなことは胡蝶は百も承知である。しかし、単なる人質ではない。織田家が美濃を攻めない事を示すため、嫡男・信長の正室なのである。ましてや、道三と散々壁打ちしてきた娘である。負けていない。
「参ったな」
胡蝶に言い返されたという意味と状況が良くないという意味。
言葉を発した信長ですら、どちらの意味だったのか分からない。
「美濃が攻める事はありませんよ」
胡蝶が冗談っぽく言う。
「美濃ではない。今川義元だ」
もちろんそれが胡蝶が期待した答えであった。
以前は、今川氏と北条氏が激戦を繰り広げていた。河東の乱(第一次・第二次)である。今川義元の相手は、小沢原の戦いにおいて上杉朝興軍5千をわずか1千の兵で小沢城を守り切った北条氏康である。そんな北条氏康を相手に今川義元は優位に戦っていた。
1544年、第一次小豆坂の戦いでは、信長の父・織田信秀が今川軍に勝利している。その時、今川義元は河東の乱に手一杯で、三河にまで手が回らなかったのである。
織田信秀はその勢いをかって、美濃にも攻め込んだ。加納口の戦いである。この戦いで信秀は美濃に大きく攻め込んだが、それは道三の策略であった。攻めきれずに撤退を始めた織田軍に斎藤軍が急襲し、多くの武将や兵士(『信長公記』によると約5千人)を討ち取ったのである。
加納口の戦いでは、どちらも領土を増やしてはいない。美濃と尾張の双方が戦力の弱体化を招いた。特に尾張の弱体化は顕著であった。それを見て、今川義元はチャンスと判断する。
1545年11月、武田信玄の斡旋により、今川義元が有利な和睦で停戦にもちこんだ。これで今川義元は三河に目を向ける余裕ができたのである。なお、北条氏康はこの和睦で今川義元との戦に向けていた8千の兵を河越城に向け、10倍の上杉軍8万を打ち破っている。今川軍はその北条氏康よりもさらに強者という事である。
1547年、第二次小豆坂の戦いで織田信秀率いる織田軍は今川軍に大敗する。加納口の敗戦による織田軍の弱体化。そこへ、北条氏康との和睦により今川軍の主力が三河に向けられて戦力が逆転したのだ。
そうした状況が信長と胡蝶を引き合わせたと言える。
1548年、三河の松平広忠が死ぬと岡崎城主が空席となる。次の三河・松平家の当主は、この時、織田氏に人質になっていた竹千代(後の徳川家康)である。そこで1549年、今川義元は太原雪斎を大将として1万の軍を出し、松平軍と連合して安祥城を攻略。狙い通り、城主・織田信広を捕虜にする事に成功する。そして織田信広と竹千代を人質交換すると岡崎城の城主に据えた。竹千代は今川義元の『元』の字をもらって、松平元康になる。こうして三河・松平家に大きな恩を売り、三河・松平家を完全に今川家の支配下においたのである。
これで尾張としては三河・松平家を尾張側に引き留める切り札を失った。それまでは事実上の対今川義元の緩衝地帯であった三河が、完全に敵に回ったのである。今、尾張は三河・松平家を先鋒とする今川義元と切先を突き合わせている状況になっているのだ。
「今川義元。強敵よね」
「全く。北条氏康を押しやって、三河を押さえた。次に狙うは尾張」
「国主・・・。尾張守護は使える人なの?」
「斯波義統様か。力がない。あれはもはや傀儡だ。守護様に力があればオヤジも苦労しない」
「何が問題なの?」
「弾正忠家はいわば分家で他の織田家は本心からオヤジに従っている訳じゃない。特に、マムシ殿との一戦以来、岩倉の伊勢守家とは上手く行っていない。大和守家は、守護・斯波義統様を担いで自分が宗家であると主張する事に汲々としている。どいつもこいつも尾張の中の主導権争いしか見ていない。全く外の状況が分かっていない」
なお、弾正忠家は清州織田家を主家とする分家筋であり、主家の下格の三奉行の一つでしかない。
「大丈夫なの?」
「オヤジがしっかりするしかない。実際、一番力があるのはオヤジだから」
「いざとなれば、美濃も助力するわよ」
胡蝶が微笑む。もちろん信長は、美濃に助けを求める気はサラサラない。そんな事があれば、胡蝶と立場が逆転してしまう。
「今はやれる事をやるだけだ」
まだ若輩の信長に出来る事は限られる。信長は若者を集めては、戦の訓練をし、とにかく有望なものを親衛隊として集めていた。
1552年3月、織田家に激震が走る。
「信秀様が流行病に罹られてございます」
織田信秀は、2月下旬から体調を崩し、3月に入ると完全に寝込んでしまっていた。
「はっ?して、容態は?」
「芳しくございません。治療も祈祷もしておりますが、効果が見られず」
信長が報告を受けたのは3月に入ってからであった。
報告を受け、胡蝶に状況を伝えると、信長は直ぐに織田信秀の元に急いだ。しかし、信長が到着したのは、既に織田信秀の寿命が尽き、葬式の準備が概ね整った後であった。
(死んだ?嘘だろ)
祭壇を見て、一瞬、信長は固まった。その瞬間、家臣の視線が信長に集まる。そして、その目に浮かぶ不安の色を感じ取ると、これから自分が置かれる状況を理解した。
(こんな中途半端な状況で死ぬんじゃねぇ。ふざけんな)
大きく深呼吸すると、信長は仏前に近づいた。信長にとって良き理解者でもある信秀の早過ぎる死は、信長にとっても大きなショックであった。
だが、動揺を気取られるわけにはいかない。かと言って、抹香を摘まむような細かい動作は手が震えて出来そうになかった。そこで、抹香を鷲掴みして仏前に投げかけた。それでも信長は、気持ちを落ち着ける事ができず、踵を返すと館へと帰った。
織田信秀、急逝。
このことは関係者に大きな驚きを持って受け止められた。
尾張での主導権を握れると考えた守護代の清州織田家と岩倉織田家。
尾張を獲れると考えた今川義元。
美濃の斎藤道三は「どうする?婿殿。胡蝶。」であった。
それ以外の地域にとっては尾張地方の地方侍の世代交代に過ぎず、特別な興味を引く事はなかった。
織田信秀の死から僅か1ヵ月、織田信秀の喪があける間もなく、早くも信長の懸念が表面化する。鳴海城主の山口教継が今川義元に寝返ったのだ。
山口教継は子の山口教吉に鳴海城を守らせると、自らは笠寺に砦・要害を作り、今川義元の配下、岡部元信らを引き入れた。さらにその後、中村の在所を改造して立て籠った。
「信長様!鳴海城の山口教継が裏切りました」
小姓が叫びながら走ってきた
「何!山口殿が?!」
「山口殿が裏切るとは・・・」
胡蝶は動揺を隠して淡々とつぶやいた。
織田家を裏切る、或いは、尾張を出ていく者が出てくるとは想定していた。しかし、山口教継の裏切りは二人にとって想定外であった。山口教継は織田信秀が目をかけていた弾正忠家の重臣だったからである。
「全軍に招集をかけよ」
「はっ」
小姓はすぐに出て行った。
「どれくらい集まるだろうか」
小姓を見送った後、信長は不安そうにつぶやいた。
「さあ。期待できるのはいつもの人たち。他はどうかしら」
こうした状況に備えて、親衛隊となる馬廻り衆を集め鍛えてきたのだ。
だが、普段から冷たい目で見られている事は感じており、馬廻り衆以外の家臣が集まってくれるのか、胡蝶も不安が隠しきれない。
「息子の山口教吉は上槍隊の子ね」
上槍とは三間半の槍を持つ二列目である。三間槍を持つ一列目(下槍隊)の槍を躱して内側に入ってきた敵を一列目に切りかかる前に刺す役目を負っている。本陣に近い方を上槍、本陣に遠くて前に出るのが下槍である。
たまに胡蝶も模擬戦を見ていたので、思い出したのである。
「ということは、向こうにも同じ戦術の経験者が百人近くいる筈」
「厄介ね。でも、こちらはもっと居るでしょう?」
「もちろん。だが、オヤジの配下だった者も少なくないから、侮れない」
「それでも、戦うのでしょう?」
「わしが嫡男だ。ここを踏ん張らないと、次々に裏切る者が出てくる」
この時、胡蝶がハタッと閃いた。
「そうだわ。こんな手紙を書いて持たせましょう。
『城一つやったのだから、義元に面会したらしっかり殺すように。
信秀様の御恩に報いるように』
これを見たら、今川は山口親子に不信感を持つでしょう。もし、彼らが討たれるような事があれば、今後、同じような裏切りをして今川に寝返る者が出なくなるでしょう。寝返っても殺されるのだから」
信長は、頷くと同様の手紙を山口親子宛てとして2通書いた。
(胡蝶が味方で良かった・・・)
全員に招集をかけたが、集まったのは馬廻り衆を中心に800人程度しかいなかった。信秀時代から信長の配下にいた者たちは集まった。しかし、元々は織田信秀直下の配下であり、本来なら嫡男信長の配下に移った筈の者達の参集は少なかった。弟・織田信行の関係者にいたっては皆無であった。
どうでなくても『うつけ者』に従う者は少ない。その正室は加納口の戦いで家族や友人を殺した憎きマムシの娘である。嫌われこそすれ、味方になってくれるものは少なかった。
(本当に人望が無いのね。私たち。知ってたけど・・・)
後ろから様子を見ていた胡蝶は複雑な心境である。この状況を招いた原因の一つに自分がある事を薄々感じていたからだ。信長は胡蝶を一瞥すると、集まった兵に向かって叫んだ。
「今日はこれまでのような模擬戦ではない。人が死ぬ。今回が初陣の者も少なくない。だが、訓練通りやれば勝てる。自分を信じよ。勝ったら、いつもの2倍の褒賞を出す」
「3倍よ!」
胡蝶が後ろから叫んだ。胡蝶にも化粧田という独自の領地がある。それ以外にもへそくりを持っている。本来は3000人以上集まってもおかしくない立場であり、それに対応できるように胡蝶も準備していたのである。わずか800人程度なら3倍でも余裕である。
しかも、この戦いは信長が当主になって初陣である。実戦の大将として指揮を執る初陣である。信長が長らく育ててきた馬廻り衆が主力となる初陣である。ここでの勝ちに比べれば、そんな金額は端下金である。
信長が後ろを振り返ると胡蝶と目が合った。そして、大きく言い直した。
「3倍だ!」
うぉおおお!
ボルテージは最高潮に達し、信長軍は意気揚々と出陣していった。
1552年5月10日、信長は800人を連れて那古野城を出発した。一方、鳴海城からは山口教吉が、赤塚に向けて1500の兵で出陣して来た。山口教吉の父・教継は別に兵を連れている。山口親子の動員数はもっと多いのである。信長は、その主家である弾正忠家の嫡男なのだから、山口教吉よりも多い兵を集めていても全くおかしくはないのである。それ程にこの時の信長の動員力・求心力が弱かったのである。まさに立ち上げたばかりのベンチャー企業のようである。
信長軍と山口軍は赤塚で激突した。これが赤塚の戦いである。双方が三間槍を使う為、四間から五間離れた槍合戦となった。
槍合戦に関しては熟練度の高い信長軍。しかも意気軒高である。それに対して、槍合戦の熟練度では劣り、これまで織田方に居て気が引けている山口軍。ただ、人数では約2倍であったため、ほぼ互角の戦いとなった。
結果は、これが模擬戦であれば織田軍の圧勝であったが、鳴海城を落とす事はできず、事実上の痛み分けとなった。鳴海城は難攻不落の城なので、急に攻めて陥落するような城ではない。信長が動員できる兵力を全員連れてきたが、動員を拒否した兵力が那古野に残っている。時間が経てば、その中から山口親子に呼応するものが出てもおかしくない状況である。その為、信長は時間をおかず、引き上げるしかなかった。
なお、槍合戦であったため、馬を降りて戦ったのだが、馬は敵陣に逃げ込んでしまっていた。戦いの後、互いに見知った仲であったこともあり、全て間違いなく返却し合った。生け捕りにした兵も互いに返し合った。『信長公記』にそう記される。
戦国時代の戦としては、緩い戦いではあったが、信長軍が実戦でつけた自信は大きかった。ただ、手紙は狙い通り今川の手に渡ったのか、あるいは最初からそういう予定だったのか、後日、山口親子は駿府に呼び出され切腹させられた。織田家の家臣から、自ら動いて今川に寝返ろうとするものは居なくなった。
やるべき時にやるべき事をやらないと誰も付いてきてくれない。リーダーシップには期待の信頼が必要なのだ。弾正忠家の嫡男として、厳しい状況にあっても、謀反に対決する姿勢を示した。それが全ての第一歩だったのである。この後の萱津の戦い、村木砦の戦いも同様である。それが弟・信行との差となり柴田勝家らを心服させる事に繋がっていく。
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑧に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)
参考:3章
書籍類
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
姫君の戦国史 榎本秋・安達真名・鳥居彩音・著
インターネット情報
Wikipedia