ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉑

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第5章は、初心を見直した信長の目標に向けた動きとなります。美濃攻略を終え、『天下布武』とそれに向けた動きです。信長は何を基準に行動していたのか、読み解きます


第5章 天下布武
    ~初心回帰~

第2節   擬態ブルシットジョブ・関所撤廃令

 「喜平次よ。話は二つあると申したな。もう一つは何だ」
「はい。先ほどの話は適材適所と未活用資源の掘り起こしという話でした。もう一つは邪魔物を除くという話です」
「邪魔物とな」
「はい。信長様は、北条氏康の公事赦免令をご存知でしょうか」
「北条氏康は知っておる。だが、なんだそれは」
「天文十八年に関東で大きな地震がありました。その時に、農民がおびえて、年貢を払わずに、国から逃げ出す事態になりました。その時に、北条氏康が出した令です」
 多くの農民が年貢や労役を放置して、国内や地域から逃亡する事態を、「国中諸郡退転」と言う。この時、北条の所領の全域でまさに国中諸郡退転が起きたのである。領民が減れば、年貢からの収入が減り、戦のための兵士が減る。北条氏康にとって緊急事態であった。
「何という令だ?もう一度申せ」
「公事赦免令です」
「うん。それはどういう内容なのだ」

  一、今後「諸点役」の代りに一〇〇貫の地から六貫文の割合(六%)で「役銭」を徴収する(中略)そのかわり、今後は昔から徴収していた諸公事は、のこらず赦免する。どんなこまかい課税もおこなわない。郡代や触口(命令伝達者)が勝手に税をかけてはならない。もしこの命令にそむいて課税をするものがあったなら、百姓は小田原城へ出かけてきて直訴せよ。ただし・・・(以下略)
 
一、代官であっても、百姓が迷惑する公事などを課すものがあったら直訴せよ。
 一、逃亡してふたたび帰住した百姓には、借銭・借米(年貢未納分)を免除する。ただしこの特典は、今日までに帰村した百姓に適用するのであって、今後逃亡するものは免除しない。
 一、今後虎の印判を押していない書類で、郡代が人夫を徴発してはならない。

品川区/しながわデジタルアーカイブ 品川の歴史 より 公事赦免令

 「第一に徴収する税を一律に決めていて単純です。誰が見ても同じ解釈になります。第二に勝手に中間搾取しようとする者がいたら直訴する事を認めています。この二つが大きな特徴です」
「中間搾取か」
「いまどき中間搾取は無い方がオカシイのです。その上、地震や凶作で多くの者が困窮していたのですから。中間にいる者が、上手く情報を操作して、お上から見えないように搾取します。二重徴収をします。農民の生活が更に苦しくなります。我慢できずに逃げ出すのです。だから、それを知ったら直訴して良いと言っているのです」
 少し熱くなった喜平次は軽く息継ぎをして、自分を落ち着かせて続けた。
 『小田原城へ出かけてきて直訴』とは、現代風に言えば、大企業の末端の社員や派遣社員が社長に直接メールを送って良い、と言うようなものである。或いは、第三者が受ける『***ホットライン』のようなものである。

「普通、直訴すればどうなりますか」
「正しければ良し。間違いなら打ち首よな」
「いいえ。正しければ死刑。間違いならその場で打ち首です」
「何故そうなる?」
「畏怖の信頼が弱いからです。直訴が正しいと証明できれば、お上は放免するかもしれませんが、その後、中間搾取を行う代官や地頭に仕返しをされて殺されます。大抵は証明できずに打ち首です」
 この時代、火起請という裁判があった。熱した鉄を持たせ、持てなかった者の言い分を虚偽と見なすというものである。権力者がどのように運用していたかは推して知るべしである。
「それでは意味が無いではないか」
「はい。だから直訴しません。逃亡するか一揆を起こします」
「ん?つまり、どういう事だ?」
「公事赦免令は、直訴して良いと、敢えて文字にして、お上が宣言しているのです。文字を読める農民は少ないでしょう?つまり、中間搾取を行う代官や地頭に向けた触書でもあるのです。直訴されたら処分すると脅しているのです。後は実行するだけ。逆らって中間搾取した者を処分するのです」
「やったのか?北条氏康は」
「はい。実行しなければ信頼は得られません。中間搾取をした人間が次々と処分されました。北条氏康に逆らう者がいなくなり、領国経営の支配力が強くなりました。農民も戻ってきて人口が増えました。そして、規則を単純化したので、下々は何度も徴収される事もなく、手続きを間違う事が無くなりました。その結果、生産活動に集中するようになり、一人あたりの生産量も増えたのです。お上はお上で、貧乏人に督促する仕事が減って、確認だけで済むようになりました」
「生産量が増えたから年貢の上がりが増えたというのか」
「そうです」
「わしもそれをすれば、良いと?」
「いいえ。信長様には必要ないと存じます。既に知行の整理も進めておられるようですから。相模では、中間搾取や二重取り立てがあるところへ地震があった。そのため農民が年貢が払えずに、国から逃げ出す事態に陥った。だから、北条氏康は荒療治をせざるをえなかったのです。信長様のご領地では、このような荒療治は寧ろ害の方が大きいでしょう」
 病気の症状に合わせて薬を処方する。経営も同じである。この時、信長には、知行の整理だけも多くの者がで文句を言っていた事が思い出された。しかし表情には出さなかった。
「それを参考に、我らに何が出来るか考えてはどうかという事です」
 これまで静かに話を聞いていた胡蝶が言葉をはさんだ。
然様さようにございます」
「規則を単純にした事、手続きを減らした事、・・・」

「何か例になることはありませんか?喜平次」
 信長が言葉を選ぶ様子を見て、胡蝶は喜平次に何か例になるものが無いか尋ねた。
「例ですか。」
 喜平次は少し頭を傾げると、ゆっくりと話し出した。
「・・・そうですね。先ほどの本美濃紙の兄弟は、職人として優秀ですが、商売の勝手や役銭の計算や手続きを苦手としております。仮に毎月、兄弟から役銭を徴収するなら、兄弟は毎月3日程は本美濃紙の作業を止めて、役銭の計算とその根拠を揃えて、支払いをすることになるでしょう。つまり、商品の生産が1割減ります」
「1割も減るのか」
「はい。私どもの仕入れできる商品が1割減るのです。ですから、そういう手続きを得意とする私どもが助けています」
「ならば、それほど問題になる事はなかろう?」
「商いの規模が大きい我々が利益を独占して良いのであればその通りです」
 喜平次は笑みを浮かべながら答えた。それは当然、信長の望む未来ではない。それはこの場に居る全員の暗黙の了解であった。
「ですが、信長様は国全体、一人あたまで見て、豊かになるにはどうすれば良いかと聞かれたではありませんか。そのために楽市を設けて、一人で販売までやる職人も集めようと言われました。腕の良い職人とそれほどではない職人、どちらが多いと思いますか?」
「腕の良い職人は少ないものだ」
「はい。腕の良い職人は10人に1人、本当に腕が良いのは100人に1人です。一人で商売までやる職人は腕はそこそこなので、その数は10人に9人、100人に99人です。そのほとんどが一人で販売までする職人であって、彼らの生産量が1割減るのです。その者たちの収入が1割減ります。その者たちは私の店で買い物をしますが、使える銭が減るので、うちも売り上げが1割減ります。そうなると、うちは仕入れを減らし、店員を減らす事になります。当然、その者達の収入が減り、その者たちが買うはずだった商品も売れなくなります」

 喜平次が言うのは、経済波及効果と呼ばれるものである。投資が1億円あれば、その経済効果は1億円ではなく、仕入れや物流などに波及して数倍の取引が行われる。通常はプラス方向で議論される経済波及効果だが、逆もまたしかり。非効率を無くすことによる効果も同様に議論できるのである。
 これを単純なモデルで数値化する(下図参照・取引単価は不変を仮定)。中間の『組立業者』が一人で生産も販売も役銭(税金)の手続きも行っており、このサプライチェーンのボトルネックである。ボトルネックとは他の業者には手続きが増えても対応余力があるが、この『組立業者』には全く余力が無い状態(フル稼働)という事である。
 手続きの煩雑さによって、この中間の『組立業者』の生産量が1割減る。そのため『全体』の流通量が1割減る。『組立業者』は多く仕入れても作業できないので仕入を減らし、売る商品(中間製品)が1割減る。一部分の生産力低下がサプライチェーン全体に波及する。
 もし、売上に対して役銭を徴収するなら、生産減の影響は『対象者(組立業者)』の売上だけでなく『流通全体』の取引額合計を見なければならない。つまり、その影響は組立業者の▲14(140⇒126)ではなく、全体の▲70(700⇒630)で影響評価しないといけない(このモデルでは影響は5倍)。
 もし、利益に対して役銭を徴収するなら、更に税収が低下する。固定費の影響である。そのため下の例では販売量10%減で、利益は25%減となり、利益に対する役銭は全体で12 ⇒ 9の変化になる(税率20%仮定)。
 これを逆にみれば、現在税収が9だったものが、非効率の排除により本来の生産量に戻せば税収12になる。非効率を無くせば税収が+3になる(非効率な現状9を基準にすれば33%増)。

左・サプライチェーン全体に影響が波及  右・販売量が1割減で利益はそれ以上に減る理由

 大きな組織であれば、いくらかは適材適所によってその影響を小さくする事が出来る。しかしゼロにはならない。まして、個人であれば、苦手な作業に費やす時間が多くなり、生産性を大きく損なう事になる。余計な手続きによって失っている生産力。その数倍が領国から損なわれ、信長の収入を減らしていることになる。邪魔者を無くす。つまり、本来あるべき形にすれば、それだけでも豊かになると喜平次は言うのである。
 
「影響は単純ではないというのだな」
「はい。人の労働時間は金銭と同じです。手続きに時間をかければ、生産をする時間が減ります。わたしたち商人にとって、時間はお金です。手続きを待っている時間は無駄です。その間に商談ができたら、それだけで儲けが増えます。それだけモノとお金が動きます」
「喜平次は最近、何に待たされた?」
  (今日の信長様への謁見で1刻ばかり・・・は言えない)
 喜平次は少し考えた。
「・・・。関所です」
「関所か・・・」
 戦国時代、関所が多く設置されていた。関所を通るたびに通行料を取られた。戦国大名の収益にもなっていたが、同時に、各地の有力者、公家や寺社などの収入源となり、戦国大名にとって対抗勢力の資金源となっていたのだった。そのため、手を出せない大名がほとんどであった。
 経済面においても物流コストが上がる事で、移動距離の長い商品は価格が高騰するようになっていた。特に京の都はインフレに悩まされていた。この時代、京がすたれた原因の一つがインフレと言う説もある。

 例えば寛正三(一四六二)年、淀川河口から京都までの間には三八〇ヵ所の関所があった。また同時期、伊勢の桑名(三重県桑名市・東海道)から日永(四日市市の日永・東海道と伊勢への参宮街道の分岐点)まで六〇以上の関所があった。『蔭凉軒日録おんりょうけんにちろく
(中略)
 地域の豪族たちにとって「津料」「駄の口」(通行料のこと)は重要な収入源となっていた。
         注:酷い地域では約1km毎に関所があったことになる

『織田信長のマネー革命』武田知弘・著より 


「手続きが増えれば、生産量が減ります。生産量が減れば本来入るべき役銭が入らなくなります。待ち時間を増やせば、商談が減ります。商談が減れば本来入るべき役銭が減ります。国が貧しくなります。そう考えて頂けると有難いです」

 1568年10月、上洛直後に信長は、抵抗勢力との力関係を計りながら領国内の関所撤廃令を発する。対象は尾張・美濃と実質的に武力で支配下に置いたばかりの南近江である。南近江の街道筋に関所が多いと、上洛するのに不便だからである。命令自体は「関所で通行料を取ってはならない」というものだが、結果的に収入が得られない関所は使われなくなる。京のインフレも緩和される。庶民も味方についた。
 しかし当然、それを収入源とする者たちから文句を言う者(寺社など)が出る。特に南近江である。そこで、自分の領国(美濃・尾張)の関所を同時に撤廃したのだから、実質支配下にある南近江も従えということである。

 その後、信長は、天下のため、また往来する旅人を気の毒に思って、領国中に数多くある関所を撤廃した。都市・田舎の身分の別なく、人々はありがたいことだと思い、満足したのである。

『信長公記』 巻1 領国内の関所を撤廃

  ブルシットジョブという比較的新しい言葉がある。見方を変えれば、一応給料が貰える仕事としては認識されているけれど、付加価値生産にまったく寄与していない仕事の事である。ブルシットジョブとして明確に切り分けられる場合は、さっさと止めてしまえば、費用も労働も無駄がなくなる。信長にとって領国内の関所がまさにブルシットジョブであった。
 難しいのは、必要ではあるけれど手続きが複雑なものや手間がかかるというものである。もともと「何らかの問題」を解決するために導入され、その後、過去の経緯の中で複雑化したもの。これは無くすと「何らかの問題」が再発するため、最低限、必要なことは間違いない。その必要性ゆえにブルシットジョブとは認識されていない。しかし、確実に付加価値生産力を棄損している。非効率である。大企業病である。そうしたものをここでは「擬態ブルシットジョブ」と名付ける。
 特に公的機関の手続きは擬態ブルシットジョブになりがちである。民間企業であれば改善対象であり、改善できなければいずれ市場淘汰されるが、公的機関の手続きは容易に淘汰されないからである。
 擬態ブルシットジョブのヒントとなるのは、CIAのサボタージュマニュアルである。その一部を紹介する。効率化の手法である。念のため。

・When possible, refer all matters to committees, for “further study and consideration.” Attempt to make the committees as large as possible – never less than five. (可能な限り、より深い議論や思慮の為として、あらゆる事を会議にはかれ。会議は可能な限り大きくせよ。―少なくとも5人以上)
・Demand written orders (文書による指示を要求せよ)
・Multiply the procedures and clearances involved in issuing instructions, pay checks and so on. See that three people have to approve everything where one would do. (指令や小切手などの発行に伴う手続きや認可を増やせ。一人の判断で十分なものには三人の承認を必須とせよ)
・Apply all regulations to the last letter. (全ての規則を末端まで適用せよ)

SIMPLE SABOTAGE FIELD MANUAL (1944年米国戦略情報局:OSS )

 非効率になった組織や社会からブルシットジョブを撤廃するには、少なくともリスキリング(全体の生産性に寄与する仕事に再就職・ミスマッチの解消)をセットにしなければならない。
 なぜなら、自身の仕事(ブルシットジョブ)が無くなる事に危機感を持つ者(失業する者)は、時間や労力に余裕があるので『抵抗勢力』としての活動に費やす。新しい環境への適応ではなく、古い現状の維持に力を使う。そうした動きは、全体の生産性に寄与する人たちのやる気を削ぐ。
 通常、失業者のケアや抵抗勢力への対応にはリソースを費やす。これらが大きくなり過ぎると、短期的にはブルシットジョブを残す方が社会(組織)の負担が小さいという皮肉な状況になる。
 それでも長期的にはジリ貧である。病気が慢性化して衰弱死にするか、手術のリスクを負うかの選択である。状況に合わせて、対応を誤らないようにしなければならない。
 擬態ブルシットジョブの場合、まず判別が難しい。判別できても通常は、もともとの問題が何だったのか、先に把握しないといけない。再発防止のため抵抗勢力が現状維持を正当化する理由にするからだ。
 もともとの問題が明らかであれば、影響の範囲を見極めながら、擬態ブルシットジョブを廃止・代替するのか、簡略化するのか対応を決めて行く。
 もともとの問題が分らない事もある。その場合は、抵抗勢力にその理由を明らかにするようにさせないといけない。知っていて、知らない振りして反対することもあるので注意が必要である。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉒に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:第5章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 武田信玄 伝説的英雄からの脱却  笹本正治・著
 歴史図解 戦国合戦マニュアル 東郷隆・著 上田信・絵
 富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記
 楽市楽座はあったのか 長澤伸樹・著
 織田信長のマネー革命 武田知弘・著

 サボタージュマニュアル  越智啓太・監訳解説 国重浩一・翻訳

インターネット情報

小氷期
 https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf

戦国時代の奴隷
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bc52b26b9fa6e0fde2415f5f0ef4cb822ae462
 https://sengoku-his.com/218

本美濃紙
 https://www.city.mino.gifu.jp/honminoshi/docs/about.html

公事赦免令
 https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000030/ht000410

SIMPLE SABOTAGE FIELD MANUAL (1944年米国戦略情報局:OSS )
 https://www.hsdl.org/c/abstract/?docid=750070

いいなと思ったら応援しよう!