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紅色の花びら*海嘯記
6月に咲く花は雨に濡れる
生まれたままの色が、
水溜りのようなカフェオレ色に変わる
いつもなら、花がら摘みにせいを出す季節
父の自慢の柿色の山ツツジ
まるでペーパーフラワーのような岩ツツジ
塀にそって並ぶ、すずらんのようなドウダンツツジ
ピンクから紫まで、微妙にかさなりあう何色ものツツジ
最後に咲くのは清廉な白と、しっとりとした朱色と
絵筆でちらしたように混じった三色ツツジ
毎日見ていたはずの庭を、頭の中でぐるりと見まわす
もう記憶の中にしかないけれど
鶯の鳴き声と調和する野原を、ただ歩く
昨年植えたらしいまだ若いツツジが斜面に並ぶ
白、ピンク、紫、それから赤
そういえばこんな赤い色はなかった
波にさらわれた22番の口紅の色
黒い服によく似合うそんな色はもういらない
ほしいものはそういうものじゃなくて
生きる目的もただ、存在の継続
せめて嫁が無事に身ふたつになるまでは
せめて孫がおしゃべりできるくらいになるまでは
せめて娘が良い伴侶を見つけるまでは
せめて息子が一人前の社会人になるまでは
せめて親が静かに永遠に旅立ってしまうまでは
みんな誰かの明日を支えたくている
でも
見ているだけの人に殺されるかも知れない
黙っているだけの人に殺されるかも知れない
何もしたくない人におそらく殺されるかも知れない
泥水が肺の底に溜まりはじめた
せめて私にも祈りと慰めを
海に流れたおびただしい血の色とおなじ
二年目の、美しく咲きほこる赤い赤いツツジよ
あの頃に、ふと見たテレビのAC公共広告機構のCMは、
電車での席の譲り合いの、思いやりがテーマだったと思う。
それを見ると、静かな苛立ちを感じた。
「思いやり」という言葉で、
すべてが綺麗にぬぐい去られてしまうのだな、と言うような。
美辞麗句ばかりが、
この世界を上手く隠しているのか、と言うような。
そんな手足をもいでしまうような、
誰かの服の裾を踏み続けているような、
薄っぺらな表現が今この国と人に必要なのだろうかと思った。
子供の躾もそうだし、学びはすべて形から入るから、
形としての言葉は必要であるけれど。
「思いやり」という言葉は人の心を縛り付けて、停滞させる。
席の譲り合いは加齢への「慈しみ」であり、
もしも身体不自由な方ならば、不公平であることの
神への「怒り」や社会構成への「反発」から湧き上がる気持ちだ。
そしてその行動はあくまでも「自分がしたいからする」だけなのだ。
「思いやり」という、人を見下した言葉でもないし、
社会のルールのようなものを尊重する自分、という優越感ではない。
人のためにという「思いやり」はどこかで辻褄が合わなくて苦しくなる。
「思いやり」と信じていることはいつも、
「自分でプライドを持って自分自身の心が動かしている行動」のことだ。
唯一無二の自分自身を信じるべきだ。
人は自分自身から沸き上がる愛や怒りで心が動いて行動する。
「思いやり」という言葉は、ただのまやかしだ。
親が子供や孫に教えたいのは、
人を思いやる姿勢ではなく、その先の、
人や物や世界に対峙できる慈しみから生まれる寛い心だ。
私や私の回りの断片をかき集めて、
事実だけど事実ではない文章を書きたい気持ちになった理由は明白だ。
小さい頃から家庭や地域や学校で教わってきたことだったから、
(来るべきものが来た)と思っただけで、災害には淡々としていた。
たぶん、いやきっと、ほとんどの人がそう。
「大変なことになると言って、姑はすぐにご飯を大量に炊き始めた」
「体が不自由な80代の舅が、もくもくと荒地をひたすら耕し始めた」
友人の息子さんが市内の小学校に赴任してきていた。
「何をどうしていいのか分からなくて、自分は動けなかった」
内陸育ちの彼が家族に吐露する。
教わる、学ぶって大事なこと。
私自身もどんなことが起こってどんなふうになるのか、
そのハード面は想像できた。
だけどもソフト面はどんな本にも書いていなかったことを知った。
じょじょに、うろたえた。
明治の大津波のあとの「雨ニモマケズ」位だった。
根無し草のようになって、ただ私なりに胸をかきむしったのだと思う。
月日が過ぎて、故郷から離れて大学進学などの若者が、
パラパラとうつを患って戻ってくると聞こえてきた。
「津波?そんなの泳げば良かったのに」と、笑われれば、
返す言葉を見つけられないのだ。
「生きてる世界が違う」それはどんな災害でも、
その中に置かれた人間に共通する思いだと知る。
それは惨めだということだ。
「10年位はお雛さまを飾る気持ちも起きなかった」と神戸の友人は語った。若い彼らのひとりは何に向かって3階から飛んだのだろう。
空か桜か、ただ消えて無くしてしまいたい何かの理由へ向かって。
塗りつぶされた若さの、言葉にできない痛みを想う。
2011年にクローズドの掲示板に投稿しつづけた散文を、
もう、空にでも手放してしまいたいと思う。
直したいと思う文章もそのままに。
数え切れない大勢の方に感謝と尊敬を込めて。
今日で毎日note104日目。
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