神の汚れた手*曽野綾子*この美しい世界
手に取る本の中で、
軽く衝撃を受ける言葉を目にして、
自分の立ち位置を確認することがある。
住井すゑの「橋のない川」の中で、
「天皇制が悪い」と書いてあった時が最初だ。
(そんなこと言ってしまっていいの?)と
後ろめたい思いにとらわれた。
それが「固定観念」に向き合ったおろおろする私だ。
それはベルエポックとなることもあるし、
(あの本を読んだ時が天王山というもの)と
使い慣れないワードに落とし込んでみることもある。
気持ちが落ちつかなくなる題名の本。
曽野綾子のエッセイは好きで、大抵は自分の宗教に
やんわりと肩の力を抜いて向き合っていた。
いい意味で「疑い深く生きる」ことを教わった。
【神の汚れた手】は、
題名と作者名だけで手に取った上下巻だった。
神=汚れている
伸ばした手は汚れている
いつも世の中をこねくり回している
わざとそうすることに意味がある
汚れていることにも意味がある
だから人間は翻弄される
実体は神というものではない
映画やドラマのエンドロールのように
私の頭の中をほんの何秒かで、
知識の総動員で想像が回りだしたから。
この本のページを開いたのは、
今まさに陣痛と戦い始めた産婦人科のベッドの上だった。
初めての出産は長い長い一日になるはずだったからだ。
ページをめくってみれば、生まれてくる子供たちの
さまざまな身体的宿命が綴られていた。
生物学的にパーフェクトな人間はいない。
他人に分かるか分からないかの違いだけだ。
それは「障がい」という苦悩や「個性」という
心地いい言葉に置き換えられたりする。
解説をちらりとも見ずに
この上下本の一冊だけ持ち込んだことを後悔した。
赤ん坊の母親というものは、
時に漫画のようなセリフを発することがある。
「うちの子、鼻の穴の形が左右ちがうのよ」
「なんだか耳が頭にくっついてるみたいに寝ているけどおかしくない?」
「上の子と違って3時間以上も寝ているから、生きてるのか心配になる」
「どうしよう、決められた量のミルクを全部飲んでくれない」
いや、別に決まってないですから (笑)
知人が、公立病院の待合室で、
生まれて何か月もしない赤ん坊を抱いた新米ママに出会った。
きっちりとおくるみに包まれて、目を固く閉じた赤ん坊は、
その姿だけで神聖な気持ちにさせられる。
「可愛いわね。ぐっすり寝てる。今日はどうしたの?」
整形外科と赤ん坊の不似合いさを、何気ない話の接ぎ穂にした。
次にくる言葉は「隣の小児科の椅子が混んでいて座れないので」
と、いうような返事のはずだった。
「うちの子、指が6本あるんです」
さらりと返す、産後疲れの様子を残した若い母親は、
何かにすがるように返事をする。
「…そうだったの。神様がサービスしちゃったのね…」と、
ついて出た言葉を上手くフォロー出来なかったと話してくれた。
「大丈夫よ。こんなに可愛いんだから」と、続けて会話が途切れた。
赤ん坊に指が6本あることと、
その赤ん坊が可愛いと言うことになんの脈絡もない。
人は答えの出ない問いにあった時に、
何かの理由を探して、心の落ち着きを取り戻そうとするのだと思う。
自分以外の誰かがどんな不自由をしているのかは分からない。
神の手が汚れていたのかどうかはきっと、
当事者しか分からないと思う。
もしかしたら、当事者も永遠に分からないことかも知れない。
だから、本を読み、人と語り、或いは宗教とつながり、
人はいつも、何かの答えを探し続けるのかも知れないね。
「僕たちはこんなも美しい世界に暮らしていたんだ」
動画内で子供たちに語る先生。
「木がこんなにもたくさんの色があるなんて」
「これが君たちの見てきた世界なの?」
「信じられない」
「空だっていろんな色をしてるじゃないか」
せめて、私達みんなで、
この美しい世界は美しいままにしておこう。