愛と怒りとどちらが先にあふれるか*ブンジュ村
昨年読んだ本は、おとぎ話のような共著の本だった。
アフリカのペンキ画に惹かれて、
タンザニアのブンジュ村で学ぶことにし、
縁あって住んだところは日本人の感性で皆が暮らしていた。
日本人はもちろん、外国人も初めて訪れる村なのに、
そこでは日本人からの教えで暮らしているという村だった。
「実はこの村の先輩は、日本人なんだよ」
村長の、シャーマンだったおじいちゃんは夢の中で時空を超えて、
日本人と交信し、いろいろ教わっていたというのです。
それもどうやら縄文時代の日本人らしかった。
120~130年前から、その日本人の教えを守る200人のブンジュ村。
最初にガツーンと来たのは、重いカゴを持ったお母さんを
手伝おうとしたら、「手伝って欲しくない」と言われたくだり。
理由は「あなたは奉仕の精神が強すぎるから」
人の心の中に喜びのグラスがあって、まず自分の喜びを満たす。
その喜びのグラスがあふれた時に、
あふれた愛情で人のためにしてあげたらいいと教えてくれる。
彼女には、著者の喜びのグラスが枯渇しているように見えたのだ。
「自分を大切にする人は、人も大切にできる」
とは、よく言われることだが、その一言だけで理解できる人は少ない。
簡単なことを難しく伝えることより、難しいことを
分かりやすく伝えることの方が、価値ある言葉として残るんだろう。
私は、いつも私を大切にしているだろうか?
一日に一度は、空を見上げているだろうか?
そんな疑問の数々までもが、優しく包み込んでくれるような本でした。
日が経つにつれ、今、私は愛より怒りがあふれてきそうだ。
政府の支援は石川にたった40億というのに、上川外務大臣がウクライナを
訪れ、3700万ドル、およそ54億円の拠出をすると表明したではないか。
昨年の9月に林前外務大臣もウクライナを表敬訪問しているので、
点ではなく線で行われる外交というのは理解できる。
欧米の支援疲れが聞こえる中で、
日本の支援継続する姿勢を見せるのは素晴らしい。
しかし、NATOを通じて、ロシアからのドローン攻撃を
検知するシステムを供与するための支援というではないか。
困窮のウクライナ国民のために使われる訳ではなく、
どこかで誰かが儲けるためではないのか。
しかも、隣国の友人であるべきのロシアに対して、弓矢を向ける内容だ。
ウクライナは戦争中だというのに、太って、
ふくよかになった大統領を、なんとも感じないのだろうか。
クレバ外相はスーツにネクタイで敬意を表して迎えているのに、
その国の大統領はいまだチンピラの風体で手を差し出している。
ハレとケを大事にする国の外務大臣は、外交のプロトコルさえ無視する
一国の大統領をなんとも思わないのだろうか。
遠い極東の国に地震があったことは耳にしても、その被害など興味はないと思われる国の大統領に、自国民の現在の苦難すらなぜ語れないのだろうか。
「ウクライナが平和を取り戻し、ウクライナの美しい大地を」
という言葉を、自国民がどのような思いで聞けというのか。
能登の被害映像はテレビではわずかに「点」で見せられ、
外国のテレビ局には「面」で見せられている。
これではテレビの視聴者のメンタルダウン対策か、政府のごまかしの為に、能登の住民を棄民扱いしているようなものではないか。
昔、総理大臣の椅子を蹴った政治家がいた。
亡くなって四半世紀が過ぎても、後援会は毎年バスで墓参りに行くらしい。
「君たち、表紙だけ替えても、中身が変わらなければ意味はないよ」
私は、あの時が自民党の終わりの始まりだったと思っている。
金権政治が繰り広げられ、
竹下元総理がリクルート事件退陣させられた時期だった。
その後どんな激甚指定された災害を経ても表紙しか、変わっていない。
国民はその政府こそ激甚災害だと指定したい。
石井先生が替え歌で「マナー」を熱唱したくなるのは分かるけど、
どなたか、政治家バージョンも替え歌作っていただきたい。
Money makes them CRAZY!