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さよならだけが人生だ*毎日note210日を前に

勧酒

勧君金屈卮
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離

井伏鱒二の名訳がこうだ。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

于武陵は科挙の難関を突破してエリート官僚になった人ですが、誰もが羨むその職を捨て各地を放浪、やがて隠棲生活を送りました。于武陵のもう1つの有名な作品『贈売松人』(松売り人に贈る)を読んでも世俗にどっぷり浸って生きることへの嫌悪感が感じられます。
こういう人だから仕官してもうまくいかなかったのか、それともうまくいかなかったから俗社会が嫌になったのか…ともあれ生きることの難しさを味わった人なのでしょう。
そこに親しい友人がやってくるのですが、後半の2行からは訳ありの人を感じさせます。仕事か人間関係で挫折したのでしょうか。詩からは落ち込んでいる姿が感じられます。
彼は金の酒杯という豪華な取っ手付き杯を取り出します。エリート役人をしていた時に誰かから贈られたシルクロード製の貴重品でしょうか。そこになみなみと酒を注いで「何はともあれまずは一杯飲め」と言うのです。
この貴重品をわざわざ出してきた姿に、「どうせ人生なんて」とある種のやけっぱちより、何とか相手を励ましたい思いを感じます。俗世を捨てる人にとっては黄金の酒杯など取り立てて価値はないのでしょうが、「金」という文字を詩句に入れたというところに、何かしらのメッセージを感じます。励ましてやりたいものだ…そうだ、金のジョッキがあったなあ…あれで酒を飲ませるか…。
相手は金ジョッキだけでなく何度も飲めと言わないと、酒を飲む気にもなれないほど落ち込んでいるようにも感じられます。作者はそうした相手に「きれいな花もいっときのことで、必ず風雨に遭って散ってしまう。花も人も歩く道もずっとこのままであってほしいと思っても、必ず風雨がやってきて終わる時が来る。それが人生というものだ」と諄々と説くのです。
こうして自己流の解釈で味わってみると、井伏式訳詩の味わいとは少し違ったものを感じます。「サヨナラダケガ人生ダ」は不条理な人生をポーンと突き放した感じがしますが、この詩はむしろ「それでも頑張って生きていけよ。私もそうして生きてきたんだ」と励ましている感じです。「人生とはそういうものであっても、それでも次の年にはまた花が咲き、人は新しく出会い、尽きた道を曲がればまた趣のある道が待っている」と。

『勧酒』于武陵 【原文・書き下し文・現代語訳・解説】 (chugokugo-script.net)

30日ごとに自分のその時の思いを綴っている。

いわば日記のように、思いの変化を一人楽しんでいる気もする。

なぜかというと自分のnote 記事を一番読んでいるのは、
大抵自分のはずだから。

よく聞くフレーズ「さよならだけが人生だ」という言葉の元詩、
また、この名訳であったとは知らなかった。

深い含蓄というべきか、サラリとした格好良さというべきか、
どちらにしても、出逢いというものの不思議な縁と、
別れの辛さ、行ったり来たりの胸のうちを、
誰かと知らず知らずのうちに共有しているような安心感がある。

悲しみも、悲しみのようなものも誰かと分け合えるものだと感じる。

毎日noteに記事をあげ続けることによって、
乱れた頭の中身の整理が出来ているように思う。

180日までは「書くことより生きることが大事」という、
詩人谷川俊太郎の言葉を支えに続けてきた。

いわば、酒の席にようやく座る余裕ができて、
我が身を振り返る時間を支えにしていたというルーティンだ。

酒の席についても、何を飲みたいのか分からない。

飲んでいいのかすら判断できない。

そこに友人が入れ替わり立ち代わりやって来て、
それぞれが、さまざまなことを私に語るのだ。

その言葉をどんどん受け取るものの、受け取った言葉に
意味を持たせたり、真意をくみ取ることなく、ただ胸に放り込んできた。

そのような雑な生活を暮らして来たんだろうと今では思う。

時間を惜しみながら、丁寧な落ち着いた心を保とうと思いながら、
静かに誰かの心と触れ合いながら、言葉を媒介にして、
鏡に映る自分自身を考えるようになってきた。

それまで自分とはどこに存在していたのか、
自分自身が見えず、答えられずにいたけれど、
ようやく「ここに有る」という小さな自分の存在を思う。

毎日記事を上げるのに苦労するのは、
「文章を打ち込むのが面倒なのではなく、
考えるのが面倒なのだ」と誰かが言っていた。

人間は考える動物なのだから、
考えることを捨てるのは良くないのかな、
考える必要ってあるのかな、と禅問答のように考える(笑)

コメントのやり取りで、コミュニケーションの難しさも考える。

考えなしに触れ合うと、相手への敬意を忘れてしまう。

この場所は潜在的な私であるべきで、
リアルな私であってはいけないのだという気にさせられる。

いきなり懐に入るタイプのリアルな私は警戒されるので、
相手はただこちらの意見を受け入れるように反芻して、
腫れ物を扱うように対応する。

だけど一方で、それは時間の無駄だと思ってしまう。

リアルな私は、無駄が、付き合いの中に必要だと知っている。

仕事や学校や家庭や友人関係のこれまでのあれこれが、
リアルな私をちゃんと作ってきたのだ。

守られて生きてきた、核となる部分は、とても頼りない。

「そういう卑屈な考えは捨てなさい」

何度言われただろう。

二つしか違わないのに、エラソー。

悩んだ時は結局、そういう言葉を取り出して
私自身の肯定を後押ししてくれるんだなと思い返す、特別な3月。

思い出してふたりの年を数えて、また過去と未来を行ったり来たりする。

さて、どんなお酒を飲もうかな。

花の種じゃなくて、苗を買ってもいいですか?あなたのサポートで世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡