日々徒然15 「整う」って?ちょっと懐疑的?
サウナで
よく「整うーーー」というけれど
いつも疑問に感じてしまう
一体全体「汗かいて整う」って何の事だろう????
(決してサウナ好きの方を貶している訳ではなく、純粋に言葉に対する自分の解釈を探究しているのです)
確かに、サウナ入ってからの水風呂
色々一言では言えない、物理的な変化や感覚的な変化による、感情の変化がある
とは実感から感じる事
そのうえで「整う」とは?言葉にするとどういうことだろう?と疑問が
「整う」を辞書で調べてみると
辞書から読み解くと、おそらく、サウナに限っては
「整う」とは
不純物を出して、具合の良い状態になる
という
状態に着目して「整う」と使うのだろう
納得
でも、とあるサウナに入った方がこんな事を仰っているのを目にした
「整うとは、整っていない自分を受け入れた状態」
最初、この言葉凄く納得して、流石だな〜と思い、メモメモ
でも、今このサウナで「整う」
とは「具合のいい状態」になるに納得したばかりなため、改めてメモした言葉を読んでみると
「具合の良い状態」=「整っていないのを受け入れた状態」では無いと思い直した
でも、実際これなら如何だろう?
「整っていないのを受け入れた状態」からの→「具合の良い状態になっていく」
結果、やっぱり「具合の良い状態になる」
サウナでいえば、汗が出る
目で見て「不純物そうなものが体から出てくる」
「自分にはこれだけのいらないものと思えるものがあったんだ」
と可視化、体感し、漠然と良いも悪いも無く、存在していた事が分かる
そこで初めて「整っていない状態」を感覚的に認め受け入れて
いらなかったかもと思える不純物をさっぱり流して
「具合がよくなって行く」
工程を「整う」
というのでは無いかな〜
と思ったら、「具合のよくない、整わない状態」
が必須であるからこそ「具合の良い状態」が爽快感や幸福感、ありがたさ、開放感、慰めや癒しと言った何か良さそうなものを体感出来るんだろう
なるほど!
日々の垢まみれで禊が必要な不純物、いらないものにまみれる、日常生活こそが、色々必須なんだろうなぁと少し自分に思い込ませてみた
でも、垢まみれってやだ
清い自分でいたいけれど、日々の垢まみれがあるからご褒美の幸福感や爽快感や感謝や等諸々があるのかなぁ
心の底から感謝できない自分が心底嫌だったけれど、もしかすると出来ないからこそ、感謝を味わえるのかもしれない
かもしれない
かも?
てへ
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