HSPやADHDは免罪符なわけ?精神障害手帳持ちの本音
最近、「私、HSPかも」「ADHDなんだよね」といった自己診断的な言葉をよく耳にする。SNSでもこのようなラベルが頻繁に使われている。しかし、私はこれに対して違和感を覚える。
HSPやADHDの特徴として、感受性が強いことや集中力の欠如が挙げられるが、これらは誰しもが経験することだ。
忘れ物をしやすい、気が散りやすいといったことは特別なことではなく、どんな人にも当てはまる可能性がある。
それを「HSPだから」「ADHDだから」と簡単に片付けることで、本当に医師の診断が必要な人々の苦しみが軽視されるのではないかと懸念している。
※そもそもHSP(Highly Sensitive Person)は病名ではなく、単に敏感な性質を持つ人々を指す言葉に過ぎない。まるで病気かの様に声高らかに鳴き散らしている人らが結構いる。
障害を抱える者としての視点
私自身、双極性障害を抱え、5年以上にわたり薬を服用している。
この薬を飲み続けることは体に負担がかかり、一刻も早く漢方だけに切り替えたいと願っている。
しかし、私は自分の障害を他人にむやみに話すことはしない。特に職場では、直属の上司にしか伝えていない。
これは、障害を理由に特別扱いされたくないという思いからだ。私が障害を隠す理由は、過剰な配慮を受けることが逆に負担になることがあるからである。
障害を持つことは、決して免罪符ではない。
むしろ、私たちは自分の障害と真摯に向き合い、他人に対しても優しさを持ち続ける努力が求められる。
私の体調が良い時、目の前に自分よりも辛そうな人がいた場合、その人を優先して接するようにしている。
これは、自分の障害を言い訳にするのではなく、他人に対してもバリアフリーでありたいという思いからである。
障害と自己診断の境界
一方で、自己診断的にHSPやADHDと名乗る人々を見ると、私はどうしても疑問を感じる。
HSPやADHDの特徴を持つこと自体は悪いことではない。
しかし、それを「だから私はこれができない」「だから私はこれを許されるべき」という言い訳に使うことは、障害を抱える者としての私には理解できない。
障害を持つ者として、日々の生活の中で感じることは、自己診断が適切でない場合、そのラベルが他人や自分に対して過剰な甘えを許すことになりかねないということだ。
私たちは、自分の状態を正確に理解し、それに基づいて適切な対応を取ることが求められる。
そうでなければ、真に支援を必要とする人々が孤立する危険性がある。
障害と向き合うための努力
障害を抱える者として、私はできる限り健常者に近づく努力を続けている。
たとえその努力が難しくても、身の回りのサービスやシステムを利用して、健常者と同じ土台に立つための工夫をしている。
こうした積み重ねで、自分自身の生活の質を高め、社会に適応していくことを目指している。
また、私は障害をアイデンティティの一部として固執するのではなく、あくまで自分自身の成長や生活の質を向上させることを目指している。
HSPやADHDを免罪符にしないために
HSPやADHDといった特性は、確かに日常生活において影響を及ぼすことがあるだろう。
しかし、あなたの特性に名前がついていたからと言ってそれがなんだというのだろう?
私も精神障害手帳を取得するまでの流れでWAIS-IIIを受けている。公認心理士による見解にはASDグレーであると記載があった。
ただ、人は皆グラデーションの中に生きていて、様々な要素が複合してひとつの形の中に収まっているだけ。
障害があってもなくても、関係なく心と体に揺らぎは訪れる。その事を忘れてはならない。
障害を抱える者として、私は自分自身の状態を正確に理解し、それに基づいて適切な対応を取ることを心がけている。
健常者に近づく努力を続けながら、私はこれからもこの問題について考え、私と同じ境遇の人達にとって少しでも希望になるような発信を続けていきたい。