キプチョゲと不破聖衣来 「追い込みすぎない」を裏付ける根拠
僕は持久走が好きだった。が、クラスの8割くらいは違ったらしい。
最高気温が7度を下回ると予想された1月の下旬、高校のグラウンドで持久走の授業が始まった。
体育を控えた午前中の休み時間。教科書をしまいながら、体操着の入ったジムサックを取り出しながら、僕の友達はおもむろに、「やりたくない」と口に出した。
どうやら世間には、長距離はきついもの、という考えが渦巻いているらしい。
中学時代の校長先生は卒業式で、区の体育大会で長距離を走った僕たちを「苦しみながら走り切った生徒たち」と称した。もちろんそれは事実だったし、僕自身も長距離はきつくなる瞬間があるものだと思っている。
ただここ最近、日本、そして世界を席巻する長距離ランナーたちは、「長距離はきついもの」という常識とは真逆の発言をメディアに残している。そして彼らは、きついよねという長距離のイメージとは真逆のかっこよさ、美しさを体現している。
高校時代、長距離ランナーはモテないという記事を見かけたことがある。僕自身も、高校時代好きだった人とは一回も遊びに行く事ができなかったし、別に持久走の授業で1番を取っても女子に囲まれることはなかった。
だけど彼らの走りには、サッカーとかバスケとかテニスとかに通ずる、スポーツとしての美しさ、かっこよさ、爽快さを感じる。彼らの活躍、考え方の裏には、どんな根拠があるのか。今回は3人のランナーを取り上げ、彼らの強さを生み出している要因を、トレーニング原理という観点から考察したい。
1.エリウド・キプチョゲ (マラソン世界記録保持者 東京五輪マラソン金メダリスト)
陸上を知っている人に対しては、紹介するまでもないだろう。
現在マラソンで2時間1分39秒という世界記録を持ち、2019年10月には、非公認ながら人類で初めてマラソンで2時間を切った、人類史上最高のランナーである。
彼は人格者であることも知られ、普段はケニアのトレーニングキャンプでチームメイトと過ごし、トレーニングの合間には彼らとともにトイレ掃除をし、洗濯物を整える姿が映像に残されている。
彼のマラソン戦績は14戦12勝、うち破れた2013年のベルリンでは、世界記録を出したキプサングに次ぐ2位と、その戦績は驚異的であると言わざるを得ない。
長年に渡って活躍し、それを維持することができのは何故なのか。ニューヨーク・タイムズの記者は、彼が語ったトレーニング哲学をこう伝えている。
「キプチョゲ(訳注=1984年11月5日生まれ。2018年11月5日で34歳)の、極度に禁欲的な日々の中で最も独創的といえるのは、
彼が決してしないこと、すなわちトレーニングでは自分を限界以上に追い込まないことだ。
彼は実力の80%を超えてまでトレーニングをすることはめったにない。
トラックでのインターバル練習や25マイル(約40キロメートル)ジョギングをする時も、最高で90%しか出さない。
その代わり、彼は最高の自分、100%のキプチョゲをレース当日にとっておく。マラソンで優勝するため、記録のために。」
僕はこの記事を見たときに、何を言っているのか理解することができなかった。
だって自分の周りでは、長距離のトレーニングはきついものだと言われているし、練習でできないことは試合ではできないと言われる。だからレースペースの追い込んだ練習をするのではないのか?
キプチョゲが天才なだけではないか?
これを読んだ高校時代の僕は、心の声を隠すことはできなかった。だがキプチョゲだけではなく、この「追い込み過ぎない」という練習のアプローチで、陸上界の度肝を抜く選手がもう2人現れた。
2 . 三浦龍司 (東京オリンピック 3000msc 7位入賞 日本記録保持者)
彼もまた、日本だけでなく世界を驚かせた19歳である。
島根県浜田市出身の彼は、小学生の頃から陸上クラブに通っており、そのクラブの先生がハードルに適性を見出したことから3000m障害を始めたと言われている。
中学時代の全中では予選突破を果たせなかったが、高校になって才能が開花。
その記録の伸び方は驚異的で、高校時代に当時の高校記録を塗り替えると、大学1年時には7月の記録会で日本歴代2位、冬には日本記録を塗り替え、日本選手権では転倒しながら再び日本記録を更新し、五輪の切符を掴んだ。
五輪では再び日本記録を更新し、予選突破、そして日本人初の7位入賞を成し遂げたわけだが、さすがにこれにはマンガの世界だろと突っ込みたくなる自分がいる。
だが彼は3000m障害だけでなく、5000mでも吉居大和につぐU20歴代2位の記録を出している。この成長を支えるトレーニングについて、『陸上競技マガジン 2021 夏・秋号』では
「練習はチームと一緒に行うことも多く、質、量ともに極端に追い込んでいないのも彼の特徴」
だと紹介されている。
また、大学2年時の関東インカレでは、東京五輪を控えた中でのレースで1500m優勝、5000mで2位に入った。そのコンディションを保つ秘訣を問われると、
「あまり追い込みすぎないこと」がコンディションを維持するコツ
だと答えている。
彼自身はきつくなっていると答えているが、走っている際には全くそれを感じさせず、走り終わった後も飄々としているのも彼の特徴である。
三浦選手の走りは日本陸上界に新たな価値感と興奮をもたらしたのだが、
彼と同じように、颯爽と駆け抜ける姿で陸上ファンの度肝を抜いた選手がいる。
3 . 不破聖衣来 (拓殖大学 初の10000mで30:45:21 日本歴代2位 )
彼女も、日本陸上界に突如現れたニューヒロインである。
中学時代にはジュニアオリンピックで優勝するなど、素質のある選手だったが、群馬の健大高崎高校に進むと故障に悩まされ、思うような結果を残すことができなかった。
実は、不破さんのように、中学で活躍した選手が高校や大学に進み、他の選手たちに抜かれて伸び悩むというケースは少なくない。これはメンタル面や指導環境、成長度の個人差による物だと言われている。だが、不破さんは拓殖大学に入学後、その才能を再び伸ばすことに成功し、陸上界の中で大きな輝きを放っている。
そのトレーニング方針を、拓殖大学の五十嵐利治監督はこう話している。
https://number.bunshun.jp/articles/-/851443?page=2
「いまは僕も含めて“焦らず、ゆっくり”という練習方針です。
今は彼女の100%、120%の能力を引き出す必要はなくて、70%を継続させたい。
全体的な練習量も他の部員に比べて抑えていますし、ポイント練習の回数も抑えてる。高校時代は故障が多く、大学入学直後も貧血に悩まされました。
だからこそ、食事などで身体づくりをして、故障をさせずに、継続的に練習をしていくことが大切なんです」
なんと、、彼女もまた「追い込み過ぎない」練習を続けるという、キプチョゲや三浦龍司と共通する価値観のもとでトレーニングを行なっていた。
4 . 彼らの発言を裏付けるトレーニング原理
では、彼らはなぜこのような発言をしているのだろうか。
それは、彼らが「タイムを追うのではなく、トレーニングの原理原則に沿ってトレーニングをすることが1番重要であると考えているから」なのではないかというのが僕の見立てである。
特に三浦選手は、順天堂大学で学んだスポーツバイオメカニクスなどの授業が自身のトレーニングに生かされたと語っている。
その理由は、数学で例えてみるとわかりやすい。
数学の問題には必ず解答解説がつけられている。だが、その解答解説を見ただけで、あるいは記載されている数字や式を見ただけで、別の問題が解けるようになると言えるだろうか。
たとえどんなに簡単な、三角形の面積を求める問題であったとしても、その定理や公式を知らなければ別の問題を解くことはできないだろうというのが個人的な意見だ。
だからこそ定理を理解し、それを意識しながら何度も問題演習を積むことが重要なのであり、その積み重ねで初めて問題が解けるようになっていく。
僕たちが簡単に三角形の面積を求めることができるのは、それを学校の先生が教えてくれたからだ。
しかし、世間一般的にトレーニング原理というのはそこまで普及していない。
僕は体育の先生から、そんな原理を学んだことはない。
僕は高校時代走るのは好きだったものの、部活動には所属しておらず、大学から陸上を始めたので詳しいことはわからないのだが、コーチも練習メニューだけを生徒に示していることが多いのではないかと思う。
だが、スポーツというのは科学的な世界であり、特に陸上はタイムという数字ではっきりと実力が現れる世界である。
だからこそ、表面的な練習でのタイムや、調整レースでのタイムを追うのではなく、トレーニングの原理原則を知り、それに沿ったトレーニングをしていくことが重要なのであり、
それによって故障も予防することができるし、伸び伸びとトレーニングをすることができるようになる。
この考え方に至った経緯は後日紹介したいと思うが、キプチョゲや三浦選手、不破選手のトレーニングに対する発言も、トレーニングの原理に基づいた発言なのではないかというのが僕の考えである。
トレーニング原理にはいくつかあり、一般的には三大原理・五大原則というのが知られているが、ここでは彼らの発言を裏付けている、超回復の原理と反復性の原理を紹介していきたいと思う。
5 . 超回復の原理と継続性の原理
超回復の原理は、筋肉の破壊と回復を繰り返すことで筋肉が増加していくという、筋力が増加していくシステムを説明した原理のことである。
まず、トレーニングで筋肉を破壊すると、一時的に筋肉の総量は低下する。
しかし、充分な休養と栄養を加えると、さらに超回復が起きて、トレーニング以前の筋肉総量よりも筋肉の総量が増加する。
ただ、増加した筋肉も一定時間を過ぎると減少を始めるので、継続的にトレーニングをすることが必要になってくる。これを継続性の原理と呼び、可逆性の原理とも呼ばれる。
一方で、充分な休養と栄養を得られず、筋力が回復する前にトレーニングをしてしまうと、再び筋肉の総量が減少してしまい、体にさらなる負荷がかかる。
筋肉の破壊だけを繰り返してしまうと、ただ筋肉の総量が減少するだけになってしまい、体が抵抗を始めて最悪の場合故障に至る。これがいわゆるオーバーユースである。
つまり、コツコツと筋肉の破壊と回復を繰り返していくことが筋力を伸ばしていくコツであると言える。
三人の選手に共通している「追い込み過ぎない」という考え方は、トレーニングで筋肉を破壊しつつも、回復をすることができる余白を残してトレーニングを終わらせ、充分な休息と栄養を取り、継続的に筋肉の破壊と回復のサイクルを繰り返していくという超回復の原理、継続性の原理に沿った考え方であると捉えることができるのではないだろうか。
その証拠に、五十嵐監督は不破選手のトレーニングに関してしっかりと食事を食べて継続的に練習することを大切にしていると述べているし、不破選手も自身でお肉を調理したり、好物のホッケを食べて栄養補給に努めていることがいくつかの記事で紹介されている。
つまり、ストレッチやマッサージといった休養と、食事などの栄養補給もトレーニングの一部であるとみなすことができるわけである。
一度に大きな負荷を与えるトレーニングは、一時的には大きな超回復で成果が上がるように見えるのだが、1回でかけられる負荷には限界があるし、回復に時間がかかること、精神的な負担が大きいことから継続することが難しく、原理的にも身体的にも頭打ちになりやすいということなのではないかと思われる。
だからこそ、7割から9割といった余白を残したトレーニングを継続し、長い目で見て徐々に力を伸ばしていくことを彼らは意識しているのだろう。
6 .終わりに
今回は陸上界に新たな息吹をもたらした三人の発言から、表面的なタイムだけでなく、原理・原則に沿ってトレーニングをしていく重要性について説明した。
今回紹介した原理だけでなく、長距離やマラソンに特化した知識や仕組みなども、今後紹介していければいいなと思う。
また、余白を持ちながら継続して続けていくという原理原則に沿った彼らの考え方は、普段の我々の生活にも生かすことができる考え方なのではないかと感じた。
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