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また走る。

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走ることについて考えるとき。
そろそろ、出場者8000人規模のマラソン大会にわたしも参加する。
選手のひとりとして。
8000人がこれから走る。
スタートラインに立つ。
ランナーの背中で視界がいっぱいになる。
みんな、それぞれの想いを抱いてそこに立っている。
なぜ、参加することになったのかも
どれくらい練習してきたのかも
どこからやってきたのかも、みんな違う。
それぞれの想いで選ばれた、ランウェアを身に纏って、
腕時計をつけたり、サングラスをかけたりして
それぞれが、これから走ることへの準備をしてきたのだろう。
わたしもそのひとりなのだから分かるような気がする。
朝から走り出す人もいれば、仕事終わりに練習する人もいる。
チームに所属しながら走ることを継続する人もいれば、
わたしみたいに、ひとりでたまに走るだけのひともいる。
仕事や学校、遊びの合間を縫って練習したり、
誘惑に負けてできなかったりする日々を
参加する事を決めたときから繰り返す。
何のために走るのか。
記録を狙う挑戦なのか、
ダイエットのためなのか、
なにかの分岐点としてのチャレンジなのか、
これもまた、それぞれに理由が存在するのだろう。
10月に1度走ったマラソン大会の風景を思い出しながら
そんな事を考える。
あの時、あの場所にいたランナーの背中や足元を思い出す。
それぞれが懸ける想いや、懸けきれなかった想いが存在するのだろう。
長い距離を走るというのは、ただ単純に速さを求めるものとは違う。
当たり前に分かりそうだが、これは自身が走り出してから実感できるものだと思う。
早く走るから、長い距離走れるわけではない。
それなのに、ゆっくり走るから長い距離を走れるわけでもないのだ。
走るには、持久力とスタミナが必要らしい。(ほかにもたくさん)
それらは、1日の、1回の、練習では身につかない。
そんなこと当たり前に分かりそうだが、ひとはそんなに完璧じゃない。
明日も走らなければいけないのに、走りたくないと心が叫ぶ。
足取りが重たくなり、視界が霞む。
今日は走るのやめよう。そう思う日が1度や2度、いやそれ以上。
しかし当日は近づいてくる。
練習を積めていなければ不安は募る。
せっかく走れた日にも、このままでは間に合わないんじゃないか
走り切れるのだろうか、と。
しかし、走るのは気持ちが良い。1日分走り切った後は、こころが軽くなる。
全て汗と共に流されていったかのように。
悩んでいるあれやこれや、
やらなければいけないこと、考えたくもないのに考えてしまう事、
一瞬の時間かもしれないけれど、走っている間は忘れていられる。
今日の目標に向かって腕を振る、足を前に出す、それを繰り返す。
単純でありながら、奥深く、
心や身体、頭の中でさえも綺麗にしてくれる。
そして、全身で成長を感じる。
昨日できなかったこと、昨日まで苦しかったことが出来るようになっていく。
調子が良い日も悪い日も感じ取ることができる。
それが走ること。
みんな(どこの範囲までをみんなというのか分からないけれど、読んでくれているあなたのことは含まれている)、
仕事や学業、頑張っている。忙しくしている。そんな気がする。
まるでわたしだけ何もしていないんじゃないか、と錯覚するくらい。
そして、落ち込む。
沈むとこまで沈んで、
走ることにした。たまに。
とりあえず数ヶ月先の大会に申し込んで、本番走り切れるように
時々、走る。
それくらいしかできないけれど、
それくらいで沈まなくて済む。
少しは沈むけど。それも時々。
今週末、走り切れるだろうか。














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