「退屈な日々にさようならを」
主題歌を担当しながらカネコアヤノも実際に出演しているということで、今泉力哉監督の同名タイトルの映画を観た。
「退屈な日々にさようならを」。
『「いなくなる」ってことは、
「ここにいた」ってこと。』
というのがキャッチコピー。
中盤までは、「なんか変な映画だな、、」と思いながらも、カネコアヤノが好きということと今泉監督作品を漁りたい気持ちで最後まで見終えた。
涙が出た。
本当に変な映画だし、それなりに暗い内容だったけれど。絶対に万人受けはしないだろうと思った。
失踪がテーマ。
今は居ない人のことを深く想うとき。
存在とは、物理的なことだけではないんだ。
誰かがその人を想えば、その人は存在し続ける。
多様な愛のかたちのようで、
それは普遍的な愛だと感じた。
クリストファーノーラン監督のインターステラーでも、そんなこと言ってたね。
愛が種の存続のためだけにあるなら、なぜ亡くなった人にも思いを馳せるのか、みたいなことを。
人間って不思議だな。
けれど、なるほど、今泉監督の尖ったユーモアはこういう終始不穏な雰囲気の作品でもやんわり出てくるんだ。どこか少し、隙間にある小さな笑いや、先に控えているかもしれないと思えるようなささやかな幸せが感じ取られる。
そして最後には、やはり少し救われる。
私はカネコアヤノを愛しているので、彼女のエンディングが私の全解釈を掻っ攫っていった。それは決して悪い意味ではなく、そもそも彼女が作る曲には聴く人に寄り添って解釈を委ねる奥ゆかしさがあり、多くを限定しない。ゆえに自分なりの答えが容易に浮かび上がる。それは、今泉監督作品にも共通して言えることであった。
何事も語り過ぎないもの、
鑑賞者を信頼している作品に私は心を掴まれやすい。
だから、「なんかよくわからなかったな、だけどなんか好きだった」くらいフワッとしていても好意的な感想になる映画は、可能性を感じるから好きなんだ。
エンディング、
退屈な日々にさようならを。
この曲について、個人的な思い出をすこし。
私がカネコアヤノに出会ったのは7年前、大学1年の頃。
弾き語りサークルの先輩がライブで歌っていた曲にふと涙が出たことをきっかけに聴き始めた。
素朴でシンプルなようでいて、どこか強い意志を感じる独特な彼女の音楽に心を掴まれた。
退屈な日々にさようならを、を初めて聴いたときの気持ちをよく憶えている。
それは、私が当時苦しんでいた片思いについて日記に記していた言葉がそっくり歌詞に現れて、それはそれは本当に驚いたから。心臓がすくむほどに。
「そんなに落ち込むこともない」
「これ以上悪くなることもない。」という箇所。
それなりに捻くれているよね。
このアーティストは、きっと他人ではないんだ。
そう思った。
今も映画をきっかけにまたこの曲を聴いている。
ちょうど6年前も
同じ人を想いながらこの曲を聴いていた。
一度だって振り向いてくれたことなかったね。
それは身体を知っても変わらなかった。
初期カネコアヤノによる「退屈」という言葉が示している気分は、まるで私の世界をよく知り尽くしていた。(「週明け」という曲にも「退屈」が出てくる。)
「わたしだけを見てればいいのに
世界が広すぎて 退屈な月曜日」
君が、私より好きな女の子たちがたくさんいる。
面白くて可愛い子たちがたくさんいる。
そんなこの世界は、
君が私に振り向いてくれない世界なんて、
とても退屈。
まったく私は学ばない。
どうにもならないことを、
追いかけてばかりだったね。
今もそう。
同じことを繰り返す。
生きているから繰り返す。
またも、取り留めのない文章の投稿でした。
自由にやっています。お粗末さまでした。
読んでくださった方がいたら、ありがとう。
おやすみなさい。
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