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カテゴリ ・ パターン ・ リズム




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認知 情報空間 反応と傾向 山 海 平地 狩猟採取 稲作等農耕 狭窄 硬直 柔軟 機敏 残っているかどうか 差異 違和感 陳腐


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人間は人間が想像する以上にカテゴライズされ、パターン化され、それぞれに固有のリズムを持っており、その範疇や傾向を出ない。このことを言語表現以前の地の感覚として理解、体得している人は少ない。理解体得した者が少ないという事態は当然であり、それは現在の人間の大多数が移住性より定住性を強く備えているからでもあるが、何より根本的には、人間のカテゴリーとパターンそしてそれとしてのリズムを総浚いしてくような人的交流環境に身を晒したことのある個人は多くないからだ。

人間を総浚いするような人的交流環境、それは例えば、自分という《 カテゴリ・パターン・リズム 》が自分以外に存在しないような地域に長期間身を置いてみたり、そしてそのような状況に由来する自己の特異性によってその地域に居住する人々の多くと接触を持つことになったり、または自分の生まれ落ちた地域や文化圏に留まっていたとしても、一般的会社組織における人事部のようなセクションに配属され、数年に渡って幾百もの面接面談を重ねてみたり、または人的交流こそを対価として提供するような仕事に中長期間従事しながら幅広い顧客層を獲得しつつコア層とそれ以外の違いを感得してみたり、とかく、外に出て大規模に違いに晒されてみたり、内にありながらその規模であっても違いを身に浴びてみたりと、そんなことをそれなりの期間相当の頻度とボリュームで熟しながら、かつ、それぞれの交流とその相手となった他者の一人一人を記憶し、自分の感情と切り離した上で分析を重ね、ある程度の統合知を形成するに至った個体は少ない。

ということで私は私なりの経路と由来で、人間は人間が想像している以上にカテゴライズされ、パターン化され、それぞれに固有のリズムを持っており、その範疇や傾向を出ないということを理解体得した。勿論のことこのような宣言自体に滑稽と傲慢に愚かが含まれることに意識は割いており、また、このような宣言から導かれる価値観が偏見に彩られ挙動が硬直するリスクを意識している。が、多くの人は勘違いしているがリスクは危険でなく危険の可能性であり、言い換え私は今現在に至るまで、私が認識するに至った人間の《 カテゴリ・パターン・リズム 》によって危険や愚劣を齎されたことはない。むしろ冷徹、明晰、精確、漸進、発展、発達、充溢、満足、そして納得という言葉が表すような感覚を、自分を含む自分の周囲で生起する人間交流に対して覚えている。つまりまともな認識の下でまともに行動し、まともな活動をしているという感覚があ理、翻ってこの感覚はまともなものであるという実感があるのだ。

しかしながら今この瞬間を含め、この記事を書こうとして挫折した今迄の何回もの瞬間、私はめちゃくちゃ頭が痛くなるそしてこの記事を書くのをやめてきた。具体的には過集中時に起こる脳髄液の還流がめちゃ強力に引き起こされ、その圧力で普通にめちゃくちゃ頭が痛くて書く気が失せるということを、何度も言うけど何度もやっている。ちな偏頭痛とか頭痛って感じではない。巡りが良くなり過ぎて体液がカーブを曲がれなくなっているような歯痒い痛さが頭頂部に起こるそしてその理由を俺は知っている。端的に、書く前の私・書こうとしている私は、これを書くことに多大な葛藤や緊張を発生させており、ていうか普通に書いちゃいけないような気が、無意識から警告されているような気がしつつ普通の意識はドライヴかまして書いちゃえよと言っているような不協和音楽が五月蝿い。多分、思い出さない方がこの先楽なことも結構あるのだろう。

ということでガチャリガチャガチャ言ったがやっぱりポポンと書き落としてしまう。ぶっちゃけ、山から降りてから時間が経っている程、そして平地に降り立って穀物農耕をした時間が長いほど、その系譜にある個体の肉体 / 認知は劣化しているのだ。よりシンプルには失われている、または元の機能やデザインが、欠損していたり奇形を孕んでいたりする程度や可能性が高い。この一点に関しては、私は人類史上最大の陳腐に同意する。二つの居住環境と生活形態では、認知の対象かつ母体となる情報空間の広さやそこを満たす情報の雑多さや種類、そしてそこで営まれる日常挙動や行動の豊かさや強度が違いすぎる、のであれば全く違うと言っていい動物がそれぞれに形成されるだろう。人類史上最大の陳腐の冒頭部への抽象レベルでの同意。多分このことが怖かった。いざ言ってしまうと自分が一生懸命保持してきた人格上の何かが欠落してしまった感覚がある。実際に今私のお腹は軽くなった。さておきこの段落の要旨を精確にして繰り返せば、あなたという現在から過去へと広げることのできる逆行生命樹の結節分岐点となっている祖先、みんな揃ってあなたへと連なる先行個体群の全体を、平地に降り立って定住し農耕をし続けるような生活形態を取るに至った個体が数的にどれだけ占めているか、逆から言えば、山岳や海浜に居住し狩猟採集をするというような生活形態を取り続けた個体が先行個体としてどれだけいるか、このような「祖先ポートフォリオ」の違いそのまま「遺伝子発現パターン」に違いがあり、当たり前だがそのまま肉体から認知そして代謝というあらゆる側面(解釈面)において個体差が出る。( IQ という分布・地平は余りにも多くのことを取りこぼしている。料理の質を「旨さ」という言葉でしか表現、というより宣言できないくらいに薄弱であるように思う。)

そんで以上のことの全体の中で重要な一節を重大な形態で取り出すならば、山から降りた祖先数が少なかったり山から降りて時間の経っていない個体ほど、肉体認知代謝は強力というかシステムのままに充全であり、山から降りた祖先数が多かったり平地に降り立ってから時間の経った個体ほど、肉体認知代謝は虚弱というかシステムとして狭窄硬直し奇形が起きている。え、なんかまじで辛い。全然こんなこと言いたくない、と思っていた自分が書き換わりつつある。ていうか《 カテゴリ・パターン・リズム 》はどこにいった。どっちかっていうと 《 アルティチュード・コンプレキシティ・スペック 》になっていないだろうか。うわ。まじでまともな記事として仕上げる気が失せていく。少なくともこのことをそのままこんな感じで書き出す以外のこと、例えばそれっぽい虚飾装飾をまぶすことはやめておこう。横と中の話にしたかったけれど性質のままに縦と実の話になってしまった。

僕らには海から出て陸に上がってから山を登って山に暮らす過程が一番のトレーニングっていうか環境刺激(肉体認知代謝形成の前提)になってたんだろうってことと、そのフェーズから遠のけば遠のく程、遠のいた個体による遺伝上教育上(先天後天)の累積が濃厚であればあるほど、当たり前だけど認知肉体代謝は未発達だったり奇形を孕んでいたりまたは単に失われていたりする。(平地に落ち着くよりは海辺に留まったり辿り着いた方がいいんだろうなそら。栄養的にも海から山へは転写が起きてるけど平地は無作為無関係な気がする。色々忘れてしまった平地の民がバランスに辿り着く可能性は低い。)

分離された別記事のようにして最後に別角度から付言しておきたいことがあるのだけれど、

点は線を辿らない
線は面を満たさない
面は立体を捉えない
立体は流転、物語を収めない
物語は寓話を見渡すことができない
そして詩は寓話にも語り得ぬものを語る
この先も同じく
これは視覚化された例えば


来歴や由来に起因する形で次元が違うのであれば、その次元差については高い側が配慮をすべきで、でないと低い側を狂わせてしまうだけ

そして何より自分より次元が低い相手に理解も共感も求めてはいけない、期待をしてはいけない、というよりそれは不可能であり矛盾、常態として不実現。高い次元から降りてきたものは降り立った地平で誤読しかされない、というかそれはその地平で誤読とは言わないし言われないし誤読ではない。ただその規模に変換、時に転換・常に歪曲されるだけ。押し当てたり押し込めれば歪曲するの当たり前だから。そこでそうなるお前は非人間でありノイズや違和感でしかない、ということもないけどお前への認知も認識も安定しない非常に不安定。下位次元にある個体に執着するのであれば、騙したり脅したり透かしたりして引き上げるしかない、それこそ相手に気が付かれないように、しかしそのことは結構な不毛。相手は全部を忘れてるしね。お前も覚えていたって仕方のないこと

ちなみに上下に優劣は含まれない
倫理観含めて優劣優等下等は低い次元の産物
それ重くて上に上がらない

あーなんか自分に残念
でも眠って再起動したら変わってる
そんで眠いおうやすみ
また山に昇って降りようね











ちなみに言い忘れたが
言語能力自体は視野狭窄
硬直である
言語は自身を稠密か彫刻しかしない

  もうこのことにこれ以上のタイプをしたくなかったが、ある程度の整合性を全体に持たせておかないと読み手に必要以上の負荷や害悪ある認識を与えたり許しかねないので、現状この記事でぶつ切りになっている各部を繋ぎ合わせるような記述をここに済ませておく。

  まず、言語以後つまり言語と言語以前(の感覚)という風に、人間の感性ないし能力を大胆に分けてしまうとして、言語以後(以下言語)を、往々にしてより発達させて適応しているのは、農耕濃度の高い人々であると思う。(更なる注記をしておかなければならないが、往々にしてと挿入したのはカテゴリー差と個人差の並存に配慮してのことであり、また、私は基本的に言語という言葉を相当に広義に使用している。例えば、珈琲という文化の殆どの部分ボリュームは殆どの人にとって言語であり、珈琲は相当に言語的文化であると思う。むしろ珈琲という文化から言語性を抜いて珈琲を作物と作物への営みとして捉えることに成功している人がいるならその人のところで飲みたい。私自身も珈琲というものは、ハイレベルな味覚や生理を要する熱水植物抽出物として愉しんでいる。そして仏典のようなものとして、更には地球規模に展開されるプランテーション作物の典型例の一つとして観察している。但し仏典とはここで、魑魅魍魎化する自己増幅増殖言語系として言っている。)さてこの段落の本論に立ち返り、「農耕濃度の高い人ほど往々にして言語に適応しているよ」というところから論を進め直したい。ここで一つの素朴な事実によって話に補助線を入れたいのであるが、中枢神経に於いて言語野は左脳の一領域でしかなく、一方でアインシュタイン等の総合イメージング能力に秀でた個体に於いて物理的にも=視認されるレベルで肥大していたのは頭頂部連合野であること、そして私達の中枢神経系とは重力に対して嘗ては主として直行して地に並行してそしてある時点から主として重力線に平行して垂直方向に急激に「伸びてきた」ということについてどのような感想や連想を抱くだろうか。つまり、つまりと言うのは論述が雑だがつまーり、言語ってのは本当に後から横から被せるネタネットワークでしかなく、今迄の進化トレンドにおいて本当に重要であったのは、言語以前、言語処理される以前に連合野に於いて集約さているような感覚でありそれを可能とする連合集約以前の感覚群なのだ。本当に重要であったボリューミーな部分の発達を犠牲にする形で言語野を発達させている個体、個体としての発達に関して言語野を起点として言語を駆動因としている個体が、農耕濃度の高い時空間において多く散見されるし、翻りそのような個体は農耕濃度が高い。彼らは足を止めて数少なな情景を反芻して切り刻み貼り付け直すようなことを繰り返すようなことをする。これは法律のような共同言語に関しても妥当し、神学において最も強烈である。ちなみに私は最初らへんに言ったことを色んな角度から言い直しているだけで推論や論述をしている訳ではない。ただこの基準で推論や論述と呼べるような言語作業がされることはほぼほぼなく、それは数学と言った「それをするための環境」でしか為 / 成されない。本論に再度立ち返り、ホモサピエンスとして進化トレンドに真っ当に適う(訂正、寄り添う(寄り添わなくてもいい))形で個体発達するには、まずもって幅広くそして重厚な感覚世界に身を晒すこと、特に最も素朴で強力な重力に対して脊椎を無理なく自然に運動させることを覚えること、が肝要であると思える。正直なところ、この広狭の点を蔑ろにして特殊な活動に勤しんでも、その人に本当の満足や納得が齎されることはないし、また、その人もその活動を本心として楽しみ、慈しむように行っていくことはできない、失われていくと思う。

  さて、「カテゴリー差としては農耕民(農耕濃度高い民、以下同意)の方が言語にそれとして適応、局所適応しているよ」というだけのことを言い換え言い換えしたとして、次として他に幾つか言ってみたい。① 「カテゴリー差としては狩猟採集民(狩猟採集濃度高い民、以下同意)の方が言語以前の全般が発達しているよ」②「発達した言語以前を言語に落とし込んだりして独自かつ強靭に言語、言語によって織りなされた都市社会に適応している狩猟採集民もいるよ、結構いるよ」③「広く深く強く発達した言語以前を言語に落とし込む、変換することに失敗することによる自己及び他者とのディスコミュニケーションや、またはその前段階として、広く深く強く発達した言語以前の感覚や感性そのものによってやそれと言語都市社会とのミスマッチによって狂ってしまっている狩猟採集民もいる、結構いるよ」とかを言おうと思う。

 ①②に関してはそうである以上の何事でも無いのでこれで言い終わる。一言添えて於くなら彼らは基本的に道化、芸者、統治者として機能するだろうと思う。③についてはどうだろう、狂ってしまっているということの具体的内実を示しつつ、この記事を読んでいる狩猟採集民系のうち、物狂いとなっていたりそうなることのある戯曲的な人々に穏当な処方箋を共有しておきたいと思う。ちなみにこれは私が物心付いたときから自然に?無意識に?やってきたことだ。段落を変えよう。

  人間や物事に取り組む時には両極を押さえるのがいいことがある。というかある程度の複雑性を備えた、全体性を捉え切ることの出来ない物事を対象にする時にはそうするしかできないことが多いはずだと思う。対象の複雑性や全体像を捉え間違えない限りは。さてそれで、私は「狂者・物狂いと化した / 化すことのある狩猟採集民系」に、① まともな食事と運動をすること ② 短期記憶、ワーキングメモリを鍛え直す、回復すること,, の二つを例示共有提示したい。

  ①について、率直に言えば精製糖質を禁忌とし、かつ合わない複合糖質を捨て去ることだ。あなたの代謝や細菌叢は玄米にも全粒粉小麦にもオートミールにも根本的に適応していない。あなたもあなたの細菌叢もそれらと共生関係に立っていない。稲作麦作農耕濃度が低いということはそのままそういうことだ。代わりに、糖質は必ず複合糖質(糖質を使っていくために必要となる微量栄養素、ビタミンやミネラル、食物繊維やその他有機化合物がリ臨在するような糖質)として、例えばサツマイモはどうだろうか。ちなみに狩猟採集民とサツマイモの関係、より精確には、「狩猟採集をしていた、人類史上ボリュームゾーンである人々(特に日本列島との位置関係的には南方に起源ある山岳民族系の人々)」とサツマイモの関係は非常に興味深い、というか知っておいた方がいい。サツマイモ自体がどうと言うより、サツマイモを筆頭としたイモ類と私達、私達のボディシステム、私達というボディシステムとの馴れ初めが強固であるように思う。次にタンパク源としては、まず「自分にとって過負担とならない、良質な、植物性タンパク源」を探すことだ。私の場合は豆、特にレンズ豆と大豆と、麻の実を筆頭とした種子類となっている。軽くて良質な植物性タンパク源をベースとしながら、時に必要に応じて「少し重いけど確かにその時に必要に感じる動物性タンパク源」を摂取していく。ちなみにこのような感覚は結構素早く構築されていく、取り戻される、回復されていく。ここで言った「軽いものと重いものを適宜、どちらも良質な」というやり方は脂質についても完全に適応される。私個人の具体としてはオリーブとココナッツからオイルを摂取しながら必要に応じて豚や羊、鶏卵や各種臓物から動物性脂肪、重いけど(ホルモンとか内分泌系にとって)必要なものを必要な時に摂っている。ていうか生肉も生レバーも好きなので食べる時にはめちゃ食べる(私には父方から北方イヌイット、日本規模ではアイヌ系の遺伝子も入っているので、私と生肉食との相性はかなりいい。父方本家は山梨を根城とするが山梨は東北以外で東北並みにアイヌ民族由来の遺伝子の残存性が高い。但し彼個人の遺伝的本流は明らかにモンゴルだろう。それは彼の顔貌を見れば誰にとっても明らかだ。笑 彼以外の親戚にはまさにアイヌという顔貌や眼光の個体が多く、先祖返りしたのか竪穴式住居を作っている優秀な建築家もいる。彼の設計した琵琶湖湖畔の無存在ホテルは美しいと思う。同系譜内の異個体のそれぞれにおいて系譜全体の孕む遺伝パターンのどれが主として発現するかは勿論のこと異なるのだろう。私と私の姉は余りにも違うパターンとして併存しており、兄はその中間色としてやりにくそうでありながらそれとして未発達であり不満足に適応している。(私から覗くことのできる範囲の)父系への言及に立ち返り私は、都市近郊の田園で人生を終えようとする父方祖母を見る度に、砂糖やドラッグや分かり易い権威によって堕落しさせられ認知を萎縮退行させてしまった居留地の先住民を眺めるような気分だったことを記憶しており、その気分はここ数年で頂点に達する。私は17の頃に祖母宅で祖母の目の前で祖母には理解の出来ない涙を流しながら祖母の葬式を済ませた。祖母は私に良太君は優しいから気を付けないと言って震えながら手を握ってきたその関節はひしゃげていた。その横には出された茶菓子の砂糖と穀物精製粉が並んでいたことをずっと覚えている。茶は好きだよいいよね何色でも。そんでまあ山梨は中々に特異な地域だと思う。粗野で野蛮、力強く魅力的。一方で母と母方祖父は明らかに周縁民族顔というか南方山岳民族顔であり、母自身仕事で中華圏に行く時には香港や台湾、時に特にタイヤル族の出かと問われたという。明確な程度や頻度は知らないが。しかし確かに自分自身、南方山岳民族特にタイヤル族の人々の写真を見ていると自分と通底するものを、目に見える領域でもそうでない領域にも観ずる、と同時に自分は彼らより幾分文明中枢系の人々に同化した系譜の末端個体であることも分かる。このリンク先資料はこのような感覚や考察のエントリーポイントだ。 https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/ )。まあ何にせよ適宜 overall に営みとして行っていくことだ。自分の由来と由来に由来する成り立ちと働きを知っていくのは大切だし楽しい。そして食べることとはその由来という音楽の主旋律であり、運動、動くことは勿論のこと演奏だ。それらの全てを無駄にはしないこと。

http://www.humeco.m.u-tokyo.ac.jp/individuals/umezaki/PDF_files/EFN.pdf

https://www.nodai.ac.jp/application/files/8414/8599/9455/62.pdf

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/278679/1/nobunken_30_113.pdf


  さて運動については無理なく楽しいものを見つけるといいが、この過程で、つまり「自分にとって楽しい運動を見つけていく」過程で、どれだけ農耕社会的な価値観、苦痛を他者から承認されること(もまた)成果とするような価値観が自分にも刷り込まれているかに気が付くかもしれない。というよりこの点に気が付いて解除しなければ、「あなたにとってまともな運動」は見つからない。例えその場にいたり手に触れていたとしても。私にとってボクシングとは非常にアンビバレントでありだからこそ強烈で強大なものになっている。ちなみに農耕社会に於いて「作業に伴う苦痛もまた作業の成果とは別に、何ならそれ以上に評価の対象やそのまま成果となってしまう」のには機械的な理由がある。稲作やベルト工のような、規格化されているのでその規格を出ないことが重要であるような作業にまつわる評価対象は、その一々の成果ではなく勤務態度と呼ばれるような側面になりがちであり、加えて、「楽しんでいる、楽しんでいることによって周りも楽しませている」ような勤務態度よりも「苦しいけれどやっている、周囲より苦しみながらもやっている(=頑張っている)」勤務態度が「狙い目となることが多い」からだ。(首(脊髄)ではなく肚(腹叢神経)を切る、しかも見せしめとしてというのが極限における典型だろう。狩猟者にとって食べもしないのに肚を割くのは訳が分からない。)正直なところ次元狭窄した人間など純粋論理レベルで予測可能な機械に過ぎない。そして農耕(を筆頭とした、本来の全体が細分化され規格化され自己目的化された作業群のどれかを強制され、その作業に自己同一させられていくこと)のグロテスクは人間の認知が孕む次元を掘り崩していくことだ。栄養学的にも認知科学的にも。ということで次元確保の営みについて②として触れていこう。原始林・源自然のような環境を渉猟する機会を定期的に設けることはさておき、

  ②暗唱、暗算、暗操(ルービックキューブや綾取りからお手玉、竹馬鉄棒ローラースケートまで)しましょう。どれをやっても結局は暗唱であり、やり込んでいくと暗唱はそのまま運動となり運動と重なります。暗唱を筆頭としたこのような記憶基礎賦活系をやっていくと、普通に人格変わっていくので楽しんで下さい。というか系としての記憶が人格じゃないはずないじゃないですか。ちなみにワーキングメモリが強大というか普通に広大になることの効用は、ナチュラルな常用認知の次元がナチュラルに上がっていることで、それに気が付かないレベルで上がっていて以前の低くて次元過少の常態を思い出せないくらいということです。というか記憶系とか人格が変わるってそういうことですよね。ちなみに受験勉強とかってあなたにとって暗唱、記憶基礎賦活系でしかなかったのかもしれませんよ、っていうかそれでしかない、それでしかなかったという見方を持っておくことは、この先そこでもどこででも何をしようと役立つと思います。

  マナーを守りました。みなさんここでよくやっていきましょう。hey, we can get along here, hey brother, get along here to be here

  今思うとこれは同じ事柄を違う距離や角度で、何よりより抽象的なレベルで書き落としたものだったんだなあと思われます

  ちなみにこの()内注記において「主たる記述対象となっているのはカテゴリー差であることへの配慮」は全く必要なかった。何故なら私は断面においてや二元によってでなく過程においてや濃度によって物事を判断し、論考しているからだ。意味が分からなければむしろこのまま読み終えて欲しい。

) 



言語の呼吸と新陳代謝は他に依ってされる
この記事で言われる「肉体認知代謝」等は
その「他」に当たる
動物は動きましょう
思いっ切り縦横無尽









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