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「「「蛇の檻」」」」」」・<~」」」


前提条件

 私の部屋には数ヶ月前からアオダイショウが住み着いている。ケース等の囲いには入れておらず、気ままに私の部屋を、私の居住する物件の全体を立体として彼は縦横無尽に這っている。彼の「気まま」は私の「気まま」と明らかに成り立ちが違うので見ているだけで楽しく、折に触れて「え、よくもそんなところに」というポイントとタイミングで遭遇するのもめちゃ面白い。つまり圧倒的他者、感覚世界や運動形態からして異なりそして私達の想定する感情機能とそれ故の社会性の殆どが存在しないという、圧倒的な他者なのだ。

 現段階で彼自身について述べておくことがあるとすれば以下の様になる。

・性別は雌であり7歳になる成体でありメタルグリーンの常態種である
・居住区域にあるペットショップで8000円で購入した
・名前は archaic からとってアルカさんとしている(けど呼んでない)

 またアルカさんを離れて蛇一般に対する私の過去遍歴は以下である。

・小さい頃から動物一般を好いていて蛇は何故か殊の外好きだった。(鳥馬犬猫を筆頭とする哺乳類も好きだったし、フェレットを飼っていたこともあった。)
・7,8歳の時に「蛇飼いたい」と言っていたら近所の地主の倅がナミヘビを瓶に入れて持ってきてくれたので2週間程飼っていた(が逃げられた)。
・キャンピングの際に何度かというか何度も狩って食べている(主にナミヘビ、ヤマカガシだった。革は鞣してナタの柄に巻いていたが、全然鞣せてなくて暫くすると鱗がポロポロ落ちてきた。暫くするとってのが感動だった。)
・いつかまた蛇をちゃんと飼いたいなあと思っていた(できればサイズ的にナミヘビより立派な、かつ日本原種であるために温度調整が不要かつ万が一逃げても生態系に影響を与えない、しかも普通にかっこかわいいということでアオダイショウを)

 以上のことを前提しつつ、私がアルカさんという個別具体的な一匹の蛇と出逢い、そして購入してから今に至るまでに遭遇した各種の「「「檻」」」について、ゆっくり淡々と記述してみたい。

法律、言葉の檻

 前項で記した通り私は「いつか立派なアオダイショウを飼いたいな」と思ってはいたが、新大久保のペットショップ屋さんでアオダイショウを目にしたその時には、ちょっとハンドリングさせてもらうだけでいいなあ程度のことしか考えておらず、買って帰ろうとは全く思ってなかった。そもそも私には動物を飼うということに対してそれなりの経歴と考えがあり、結果として「一時的な保護や里親という場合を除いて出来るだけ飼いたくないし愛玩動物として購買したくない」というスタイルを取っており、また、動物を欲しているならばその欲求を充たすような、適切な人的交流を増やせばいいと思っていた、し、今もそう思っている。

 しかしながらそこでその時に目にしたメスのメタルグリーンのアオダイショウを私は8000円で買って持って帰った。何故か、それは彼女が確かに立派でかっこかわいいアオダイショウであったからでもあるが、それ以上それ以前そして何より、アルカちゃんはカフカさんとも呼び得るような摩訶不思議な事態に囚われており、そのことが興味深いと同時にそのことに関係する人間と蛇が哀れだったので、とにかく一体全体、一旦事態を解放したくなったからだ。しかしアルカさんは立派に大きくメタルグリンでかわかっこいい蛇であった(現在形)。

 さて、雄であればカフカくんと名付けられていたであろう結果的アルカちゃんが直面していた(当蛇は感知しておらず感知し得ない、そういう脳みそ無い)摩訶不思議とは何であったか、それはまさに歪で奇怪な言語キャッスルであり行政レベルの法律と呼ばれている代物だった。(ちな私は法律等の文明発生源であり文明動員力であり文明の所産であるソフトウェアもハードウェアも憎んでなんかない全然無い。ただそれら規模のでかい発明品は新旧入換に半端じゃない労力が掛かるので惰性で旧式採用が継続されて結果的に現実と摩擦を、それ以上に人々の現実認識と摩擦を、無意識に沈む認知的不協和という形で生み出し、聴こえる人にしか聴こえない不快の音楽を大音量で奏でることになってしまうとは思っている。(「法律」なんていう大枠でのみ法律等を捉えている訳でも決してない。))

 そんでさて、アルカちゃんを取り囲んでいたカフカ的ラビリンスの全体と顛末は以下のようにして数センテンスで記述される。

・住宅街に出現したアオダイショウを50代主婦が発見、発狂、通報する
・付近派出所勤務の巡査が参上、仕方なく捕獲
・警察は「取得物(的な法律区分)」に該当する物として当該アオダイショウを取得、保管
・しかし一度「取得」した「野生動物」(?)を「自然環境」(?)に「リリース」(✕)する権限を警察は持っていない
・一方で「払い下げ」(?)という形で「民間取扱業者」(?)に反対給付を受けながら引き渡す権限はある
・ので地域のペットショップに売る(一番の買い手はテレビ局で、テレビ局は時に売り手になるとのこと。しかしテレビ局による購買もたまのことであり、多くは長い期間をケースの中で眠って過ごすことになる。)
・簡単に言えば catch したけど誰にも release できない。ペットショップからの買い手にしても、野に release することは禁止と書面で告げられる。衝動的に街へ囲い入れられた者を、権限上は誰も解放してやれない事態が完成されているということ。壁に取り込まれた蛇は街を這いずり回ることしかできない。しかも盥に入れられて。必然的な文言上はね。それってどういう世界観?全体を眺めたような作り手は絶対に不在

 思ったより文章数も文字数も消費してしまったがそういうことらしく、そういうことになる。「」とか?とかを使っているのはその部分の用語法が法的に正しいのか分からないからであるが、そもそも全体のあらましとして本当にこうであるのかも分からない。アオダイショウのいたペットショップのフロアマスターから聞き出したのであるがあやふやだったしネットで調べてもよく分からなかった。というか調べを進めれば進めるほど?が深化していく類の魔カフカ不思議であることは明白だったので、事態把握と現状認識についてはアバウトな推論で済ませてしまい、実際的な労力と時間を簡潔なアクションに注いで事を進めたのであった。つまり買って持ち帰り、ひとまず部屋に放ったのである。

 すると予想していたことであったがアルカちゃんは入れ子の次なる檻に遭遇し、そこに含まれているようだった。では次の檻に移ろう。

住宅とケース、物理の檻

 アルカちゃんが次に遭遇し含まれた檻とは単純に物理的なものだった。しかし通常期待されるようなプラスチックケースではない。私はそれを買わなかったし今現在に至っても買っていない。彼女を一時的にダンボールに閉じ込めることはあったが結局は放し飼い状態を継続している、というか放し飼いしている。

 彼女が遭遇し含まれた次なる檻は単に私の部屋だった。しかしただそれだけなら私はそのことに一段落を使わない。私はそのことを知っていたのであるが、私の部屋は現代建築よろしく非常に密閉性が高く、蛇を持ってしても一切の抜け道も風穴も見つけられない程に閉じていたのである。しかしこのことは意識されないだけで殆どの人の今現在の居住環境について妥当するのだろう。なので無意識に沈む素朴な真実をもう一度。貴方の部屋は多分、蛇を放し飼いできる程に密閉された構造を持っている。蛇も驚いているようだった。

 アルカちゃんは部屋に放たれた当初、部屋の各所と特に隅々を這い回り、とにかく隙間と穴蔵を探索しつつ、随時外へ外へと向かっているようだった。空間認知を拡張しつつ安定化しようとしているのが見て分かったし、その末に外の世界へと逃げ出ようとしているのは明白だった。蛇がどの程度の推論と期待をするのかは未だ持って謎であるが、とかくアルカちゃんは隙間という隙間に分け入り穴という穴に潜り込み、結果、私よりも広く微に入り細に入った見取り図を脳内に完成させたようでありながら、最終的に、この部屋からは出られないということを理解したようだった。アトランダムに這い回りまくる数週間の後に暫くの間、今迄はずっと避けていた地点に、何も無い部屋の中央に蜷局(とぐろ)を巻いて陣取っていたのが印象的だった。

 そんな彼女のポージングを見て私も追って再認知した。この部屋はとても密閉度が高く、それは蛇を放し飼いすることのできるレベルであると。繰り返すが私は私なりの理由でそのことを知っていた。但しここで「知っていた」と言った場合の知的判断は人間の感覚世界と運動形態を前提としたものだったので、蛇も同じようにしてこの部屋を完全密閉と判断するかはぶっちゃけ定かでなかった。つまり、蛇のセンサーとモーターを持ってすると外の世界への隙間と穴があることもあろうと思っていたのであるが、そうでないことを祈っていた通りにその通りだったのであった。(正しくは「その通りではなかったのであった。」。)

 うねうねと這い回り脱獄を試み続ける蛇を尻目に飼育ケースを購入しようか逡巡し続けていた私であったが、彼女が部屋の中央に陣取り「それでこれからどこへ行こうというのか」とでも言うような風情を醸し出しているのを見て、ということはじゃあケースは要らないなあよかったあ、閉じ込めると環境も個体も汚くなっちゃうんだよねえ、と思っていた。しかし放し飼いの結果として彼女の移動と出現、何気ないタイミングでの遭遇やバッティングがアトランダムに起こるのも嫌だなあと思っていた(思ってない)、のだけれど、そんなことはなくアトランダムは特定のパターンへと速やかに収束していき、アルカちゃんは自前の「見えない檻」へと自分の見えない足で歩み入ろうとしていたのであった。そして私は幾つもの文脈で感動した。それは自分の中にあった違和感やズレ、些細な感覚のどれもに実体的な裏付けや支持があったことに納得したからだ。さておきアルカちゃんを囲った最後の檻を見に行こう。

ルートと習慣、海馬の檻

 アルカちゃんにとっての終局的な檻とは、彼女自身による新規探索の終わりと結果であり、彼女自身の神経系に刻み込まれたもの、神経ネットをデータに応じて稠密し彫刻した末のものだった。言い換え、彼女は何処をどのように訪れるか、そのルートとサイクルを既に完全に決定しており、具体的には冷蔵庫とトイレと洗濯機の裏側を規則的に巡るという人(蛇)生を開始したのであった。今現在の私は「ここにいないのならあそこ、ここにもいないのならあそこ、あほらやっぱりここにいた」を最大の労力として彼女を確実に発見することができている。これは彼女がこの部屋に訪れてから最初の数週間には考えられないことだった。確かに、冷蔵庫の裏、トイレのタンクの中、洗濯機の裏か下で発見することは多かった。しかしそれ以外のポイントで遭遇することも多かったし、ポイントとは呼べない訳分からん場所でうねうねしていることもよくあり、また、「え、今何処にいるんだろう。数日間は見ていない。実は逃げてたりして。」なんてことも何度かあった。しかし今は時空双方に関する規則性の下で活動なさっていてどうもこれが永続しそうな雰囲気がある。というか多分そうなのだと思う。彼女にとっての天変地異(私の引越し等)がない限り、アルカちゃんは死ぬまでそれをそのように繰り返すのだと思う。もうすぐ私はその規則性の時間面も把握し、「もう少しでトイレから出てくるよ、ほら!」なんてこともできちゃうかもしれない。

 まあ細かい具体的な事柄はさておき、法律という言葉の檻の単調ラビリンスから( not 救い出した but )掬い出した蛇を、今度は狭苦しいプラスチックケースに閉じ込めないといけないのかなあ嫌だなあ可哀想だなあと思っている内になし崩し的に放し飼い状態としていて、現代建築らしく密閉性の高い我が部屋の全体がそのまま蛇の檻となっていると思ったら、神経系それ自体の習性により蛇自身が私のそれなりに広い部屋を自分の檻として最適に彫刻していったことに、私は素直に驚き感動した。今彼女は冷蔵庫の裏側に潜みラジエーターに温められている。

 ちなみに私がこの部屋の密閉性を知っていたのは、単にそのまま自分の部屋の密閉性ないし開放性を点検した、徹底して確かめたことがあったからだ。私自身、私を取り囲む物的な檻から逃げようとしていたのかもしれない。

物理と情報、における檻 ⊆ 建築

 以上の話から一般的な教訓か言説を導き出すとしたら、私達は物理と情報の双方に於いて檻を建築するということであり、更に抽象し、物理で成される建築は情報によっても / おいても成される、物理で実現されるものは情報によっても / おいても実現される、物理での実現は純粋情報的に実現 / 再現される / できる、ということになるかもしれない。

 そして私の一つの性癖を開示するのであれば、それは「出来るだけ情報レベルで実現してしまう」ということになる。なのでハイキングやキャンピングに行く際にアイテムや装備は出来るだけ持たず、それら具体物によって達成される事柄を、場への入り方や行為するタイミングを調節したりすることによって同程度達成しようとすることが多い。笑えるくらい簡単な話、雨具を持っていくのではなく確実に晴れる日にハイキングをする、というようなことだ。そしてコンパスを持たずにしかし日中に、太陽が視認できる間に目的へと着くように、太陽が出た瞬間から移動を開始するようなことでもある。急にセクシャルな事柄に話を振るのであれば、所謂 SMというものに私は興味を持ったことが無いし今後も持つことはないと思うが、DomiSub というものには惹かれる、というか、「結果的に DomiSub になっている」みたいな状況や流れってのは erotic だなあと思う。おーいお茶(ちなみに「結果的に、なっている」と表現したのは、純粋情報レベルでの状況 / 状態達成には「流れを感知し流れに乗る」というような能動的受容とでも云うような態度が必要になると思っているからだ。つまり無理が効かないのであるが、その分強力である。その場の全てに求められ、是認されたことしか起こらないからだ。)

蛇から足算して乗算、例えば社会性

 蛇という題材に託(かこつ)けてもう一つ、もう一方向に話を広げて見たいと思う。それは、蛇は動物一般への理解に関する強力で適切なベンチマークになるということであり、人間として人間を理解していくにせよ、では人間は蛇に何が加算され累乗されているのかという、地に足着いたとでも言えそうな議論や考察を展開できるということである。蛇こそは脊椎動物の原型であるかはさておき、そのように仮定して人間を含む他の動物を感得し、理解することは可能であるし、そのような「基盤ある感得と思考」は強いなあということを言っておきたい。

 蛇を実際に飼わずともそのような思考実験と運動実践を繰り返してきた私であるが、実際に蛇の動きを見ていたり触ってみたり、または私や環境との相互作用の様子を見ていると、彼(彼女)に辺縁系と新皮質と四肢を加算して累乗が起こったような新システムとしての私が、その奥底に眠る原始性を活かしながら全体として強力かつ持続可能に運動活動し、他者と交流していくにはどうすればいいかが、そのままだったり裏返しとしてだったりしながら蛇に現れ、観えてくる。蛇すご~い。にょろにょろ。

 人間の人間としての始まりは、蛇を怖がらずに蛇に触れ、蛇の絵を壁や砂に描いた個体によって成されたと思います。なので皆さん、住宅街で蛇に遭遇しても通報しないでください。それは人間の終わり、終わりの人間です。さておき蛇には純粋な運動と強靭な代謝を、一方で人間には監獄実験と自由や創発を、それぞれに low と high を仮託し集中して見て取るのは楽しいし有益だと思います。

 おわり

 文責蛇













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