位置 ・ 移動 ・ 交換 ・ 情念
何をどう書き出せばいいだろう
大学に入って少しの時、経済学部でもないのにミクロ経済学の理論書を読み下しながら、ここに書いてることの殆どは、位置や移動、それに交換といった素朴な概念、というより発想によって表現し直すことができるし、恐らくはその方が「好ましいように情報量が少なく」なるだろうと思った。
そしてよく自分の過去を振り返る、記憶に分け入ってみれば、往々にして私は多くのことの殆どの部分を、位置や移動、それに交換といった素朴な建て付けから理解し、それ以前に感覚してきたことに思い至った。そのような理解や感覚の枠組みからは、感情や情念と呼ばれるものが抜けていたような気がした。
さて、何をどう書き出せばいいだろう
それによって何がどう書き終わるだろうか
大学に入って少しの時、から遠く離れてずっとずっと遠くのパレスチナ、かイスラエルのどこかで、ここに生きる人々の全てが、多くのことの殆どの部分を、位置や移動、それに交換といった素朴な建て付けによって感覚し理解することができれば、どれほどもっといいだろうと、私は一人、旅人学徒の癖に溜息をついていた。
何をどう書いているのだろう
よって何処へ向かっているのだろう
最初に頭にあった地図は捨てられてしまって
そのもっと前のもっと前から、僕は自分を含む殆どのことを位置や移動、それに必要なら交換といった枠組みから理解し納得、それ以前に感覚していて、そのようなシンプルでシームレスな営みの障壁になる限りで感情は抑制していた。抑圧とか、押さえつけていたとかではない。素朴な望遠顕微鏡によりより多くの細かなものを写すには、どうしても感情と呼ばれるものはレンズの曇りとしか言えなくて、だから私は息を潜めるように感情を抑制していた。かといって没感情的ではなかった。驚きや楽しみといった原始的で力強いそれらには屈服していた。あと、時折必要になるような、マナーのような怒りと挨拶のような悲しみには。
何を写し出しているのか
あとどれくらいかかるだろう
ボクシング、ポッピン、合気柔術と呼ばれる類の合気道、カウンセリング、作話、とか。目にどのように見えたり耳にどのように聞こえたり手にどのように触れたりするのか、それとも目に見えず耳に聞こえず手にも触れないのか、はそれぞれに違うが、私は意識や身体の位置と移動の実践としてこれらのことに時間、というか人生とか代謝を使っている。意識や身体の、それら全体や各所の位置や移動を、任意そして自由にすること、に意識や身体という資源を費やしている。それは多分絶対に、ずっとそんなことに興味関心があったからだ。つまりずっと同じような一つのことを行っているのだと思う。それと私自身はやっぱり、交換という発想や営みそれ自体には力点を置いてないようだ。それは第一義的ではないから。というと?
あと少し行ってみようか
今までがどれくらいと言うのか
位置は位置であり、あまりにも地平が異なるような二つの位置は、そのまま「地平が違う」とか、または「位相が違う」と言えると思う。そして移動は移動であり、ある位置に在るものが別の位置を占めるまでの動きを指している。そして交換とは、ある移動と、それを根拠に為される他の移動の一組を指している。逆から言い換えれば返報を期待して為される移動とその返報としての移動の一組である。そしてここで付置 constellation という言葉を導入し、それが「複数のものの位置取りやその移動の組み合わさり」を意味するのであれば、何らかの付置を期待することが情念の骨格だと思う。その肉は快不快。
さてさて OK このまま
後出しでこの記事の論旨を述べるとすれば、私たちという成り立ちを見つめる、観つめる時に、一度は情念を取り去って、出来れば交換という発想をも引き剥がし、ただ物事や世界を位置と移動の合わさりや連続として認知することが、何かのために必要であるように思う。しかしながらその何かというものはよく分からない。多分「目的」として措定される概念や発想の中で、最も複雑で流動的なものがここに入るのかもしれない。これを更に少ない情報で言うのなら、期待や予測といったものを引き剥がして取り除いて「世界や物事」というものを眺めてみると、そこにはもう位置や移動といったものしかないということであり、一度その視点に還元されてみるのはどうか、ということであったりする。このお誘いは今の自分にもしている。
位置と移動、交換そして情念。これらの素朴な建て付けから世界を眺めながらその建て付けの後者半分を取り壊していくと、世界の基本構造というか骨格がグロテスクに立ち上がる。これをグロテスクと言うのはそこで生きることができないからだ。交換や情念、時に無償や愛になるまで純化され得るそれら無しには生きられないし、生きてはいけない。どうせ誰も生きられなくなるから。よってここで一句
愛し愛されなければヒトも人も生きてはいけない 生きてはいけない
申し訳の一つは 愛されなければ愛せないということ
大義名分の一つは 自分を愛し他者を許すことはできるということ
ことことことこと殊更に 今ここで言うべきことは一つもないこと
ただ触れればいいということ
ただ淡く それでいて強く
ただ触れるということ
そこから始めるということ
そこから始まるということ
世界や物事を期待や予想から解放して、位置や移動といった生々しい基礎骨格にぶち当たることも、交換や情念を期待や予想から解き放って、それらを無償や愛として純化させる、最早、自己矛盾であるかのように純化させることも、どちらも生には必要であり、認識にとっては必然だ。やることはいくら多いように思えても実際のところ数少なく、大体は一つか二つであることを受け容れている。それが二つであった場合に時たま、そんな二つに切り裂かれたり分裂させられたりすることもありますが、暫くするとまた一つに立ち返って「いち」だとか何だと言い始めますが、それでよしと今日も手の向く方に歩きまして、足を動かして満足するのであります。よろしくお願いします。明日はまた複雑で、流動的ないい日となるでしょう。