快の錬金について
実直に快の練金についてと書いた方がいいかもしれない。そもそも金を錬するとはトートロジーとは言わないまでも、冗長な重複(つまり重複)でしかないような気もする。
さておきこの記事では、人間の行動原理や原則となり(であり)得るもので、もしそうなれば好ましいと思えるもので、「主体的」「生産的」「前向き」「ポジティブ」等と周囲から評される人が周囲に誰に居なくても従っている無意識の流れであり、恐らくは有り難いことに私も往々にして従っているその流れに、意識を当てそして言語化してみたい、よって強化深化してみようと思う。
一歩下がったか上がったかする蛇足であるが、無意識に沈んだものを「言語化」という手続きによって意識に上げ、そこで(意識の表層において)それを(習慣や現象を(意識的に))分化発達させ、そしてまた意識の周縁へと追いやり深層へと沈み込ませるという過程は、何事の上達にとっても必須であり、少なくとも上達のプロセスを加速促進させるものと考えている。より速く疾く強く無駄のない動き(描くこと書くこと伝えること動くこと)がより小さな力によって達成されるようになると考えられる。もちろん、一度言語化・分化発達させたものが筋違いであった場合、身体や他者や現実の流れに拒絶された場合には、再びそれを意識の表層に引き上げて破壊再構築することのできる柔軟性を備えていることが好ましい。または必須である。
以上の蛇足に比べて以下の本論は端的であり短いかもしれない。その簡潔なボディはこのようになる。
【快の決定】
・現在の現実ではない、かつ、現在の現実より遥かに快い非現在の現実(身体の状態や各種の能力、自分を取り囲む諸関係そして環境)を想像する
・現在の現実にあって非現在の現実にはないもの(状態、能力、関係、環境、物体)を実現、獲得、構築、取得するという行動や活動が、現在の現実に於いて具体的にどのような実践となるかを策定決定する
【快の練金】
・決定された快の実践が、購買を代表とした「物体を取得する」であった場合は、現実の生活を困難にしないならば(困難にしない範囲で)購買してしまう。それ以外の快の実践の場合は以下のような過程を採る。
・決定された具体的行動と活動、快の実践を、まずは「(努力/実践をしなかったという自意識に由来する)不快を回避する」という感触や着想に於いて、一定の時間、一定の頻度で繰り返す。
・「不快を回避している」状態が、暫くすると連綿としながら「快を享受している」と表現されるような状態となり、ついには「快として追求している」状態に至っていることを認める
補足としては、特に「不快を回避している」時にはできれば記録を取るということ、そして記録項目は当然のことながら自由であるということ、暫くしてもどうしても「快を享受している」状態にならないのであれば快を再策定再決定すること、但し睡眠や栄養の不足等の事情により体力や理智性が衰弱減退している時にはそのような判断を下さないようにすること、等が挙げられる。
また補足とは言えない補足として、
・想像するということについて:現在の現実と非現在の現実、というような表記表現をしたように、現実というものを現在から、便宜的にまたは実際として分離させておくこと。よって、自分が捕捉そして構築している現実というものが、ある程度または相当に柔軟可変であることを受け入れること、または発想のベースとして意識の深いところに導入しておくこと。言い換えれば、想像するとは、自分を含み取り囲む現実に介入干渉し、それを深化変性し、組替書換転化転換する営みの、少なくともその端緒であることを受け入れること。
・快への連綿について:当初は「未達成は不快」でしかないものを「達成として快」から「それとして快」そして「快としてより洗練するという快」まで継続する、引き上げるには、その過程を繊細に記述すること、というよりそういう過程として繊細に観察することが求められる。その観察もまた実際のところ想像として行っている可能性があるが、であるとしてもこの多重入子の想像駆使を物おじせずに行うこと。
更にはこの記事の前提として、
・実践、行動、活動と呼ばれるものは意識操作か身体操作でしかないことを認める、またはそのような低次元における分類分別のみを受け入れること、
・よって能力とは意識操作性能と身体操作性能でしかないことを認めること以下同じ。しかし加えて、その二つは重なり巡り合っていることを実感しつつ涵養していくこと。