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全体的な帰結 : 癌、アトピー、統合失調症




人間という社会や文明またはシンプルに集合や関係が、その繰り返しや継続そして累積の中や内で抱え込んで自らに約束する全体的な帰結というものが、幾つかある。そう分けて呼ぶことで何を(達成、実現)しようとしているのかは不明だが、「肉体的な次元」においては早期にはアトピーそして終期には癌、「精神的な位相」においては期を問わず統合失調症がその代表例となるだろう。

この記事ではそれら各次元における全体的な帰結について、それがいつ始まってどのようにして帰結となっているのか(、その trend を維持したり、その trend から逸脱するにはどんな実践や行動が期待されるのか)、今現在の私の記憶から十全に引き出して再構成してみたい。

まず癌について。これは皮膚における自家感作性皮膚炎と似ている、相似する。つまりはエラーがエラーを引き起こす状態であり生体が生体であることを辞める過程としての bad roop である。どんな trip であれ roop であれ、そのような trip / roop に突入する確率はその trigger が引かれるまでに決定されている。そして癌という trip / roop への突入確率を操作するのは、酸化と糖化を代表とする微細変質であり、癌への trigger はその閾値に至る累積ということになる。

しかしながらここで補足ないし特筆すべきは、生体が生体であることを継続するとは糖化しつつ酸化するということでもあるので、糖化と酸化を忌避して日々の行動をデザインするような生体は生体と呼ぶに相応しくない。少なくとも意識の発生を経た Homo sapiens ではない。Homo sapiens としての問題は酸化と糖化、つまり生体としての「行いであり失い」をどのようにデザインし、よっていつどのように「行い切り失い切る」つまり生体であることをストップするのか、その「終わりを含む全体」をどのようにデザインするのかということであるように思われる。

であるからして、(糖化や酸化を代表とする)微細変質の帰結を「病として癌と呼ぶこと」は、意識的な生命体としての失敗、生命体として意識的であることの失敗とも思える。しかしながらここで留保すべきは、ここで生命体と呼んでいる事象ないし現象は、一世代分の一個体というより数世代に跨る系譜のようなものであるので、前世代から繰り越され続けてきた無意識(の習慣)を原因や背景として、ある特定の世代の特定の個体において「病として癌と呼ばれる微細変質の累進」が帰結したとしても、その個体(の意識の)失敗と呼ぶことは酷のようにも思える。

以上を纏めると、
・生体には糖化や酸化を筆頭とした微細変質の累積が約束されている
・意識を持つ生体は「行い即失い即行い」としてそのあり方と帰結をある程度デザインできる
・しかしながら生体やその意識の性質は系譜による慣性を受けるので、一世代及び一個体の失敗の責は当該個体にのみ帰せられるべきではない
・・つまりは時間という基準においても全体的な帰結であることを受け入れる態度が、意識的であることの出発点として必要となる

次にアトピーについて。癌を引き起こす要因はアトピーの要因でもあるように思えるが、アトピーに特筆すればその要因は「経皮経口摂取による、腸壁損傷からの腸内炎症および血液汚濁」であるように思う。であればアトピーとは腸管及び血液における不具合が皮膚にフィードバックされたもの、またはその不具合への総称とも言える。つまりはやはりアトピーも全体的な帰結であり、ここにおいても全体性は時間へ適用されている。但し時間への適用、または世代の越え方は、行動習慣を継承することによってなのか、(それによって)遺伝子発現を継承することによってなのかは明らかでない。というよりそれら双方によることのみ明らかであるように思える。このことは癌についても同じ。

さて、先に挙げた腸壁損傷、腸内炎症、血液汚濁とは実態においては一連一体であるから、その発端である腸壁損傷について詳述したいと思う。メタ的な見地から言えばそれは「全体的な摂り過ぎと個別的な摂り過ぎによる組織破壊」と言える。つまり、各生体においてその時点で決定されている消化吸収能を越える摂食を行うと、「「もうその時点ではそのような形態でそこにあることが予定されていないもの」が「まだその時点でもそんな姿形でそこにあってしまっている」ような不都合」が発生し、その不都合が物理化学的に表現される。その表現を腸管に留めれば腸壁損傷でありその追表現としては腸内炎症となり、この表現を生体内部の全体に拡張(敷き直)したものが血液汚濁であり、この表現を更に生体の限界または輪郭であるところの皮膚組織にまで適応したものがアトピー性皮膚炎である。ここまでの記述は摂取の全体に対して行われたが、これが各栄養素ないし化学物質についても相似的に起こり得る。と言うより全体とは個別を記述し切る際に冒頭で使用される便宜に過ぎない。と言いつつも全体への記述のみでこの段落を終えていることは許してもらいたい。

ちなみにアトピー / atopy とはギリシャ語で「奇妙な、不可解な、原因不明の」を意味する atopia に起源を持つ言葉でおり、端的に言って言語表現としての体を成していない。少なくとも、そう呼び表すことによって一定の動作や実践を促すような「意味ある」呼び名とはなっていない。そして恐らくは適切な表現を与えるのであればアトピーとは「文明毎の不均衡累積への生体表現」となり、アトピー性皮膚炎とは「文明毎の不均衡累積への、生体における最終的な表現」となるだろう。

これ以上の詳述をするとなれば対象は「では「この」文明において累積している不均衡とはなんであろうか」ということになろう。様々なチャンネルを通して不均衡は生体に累積されるのであるが、ここでは食事つまり経口摂取と洗浄つまり経皮排出に特化して記述を継続したいと思う。

まず食事という経口摂取について。不均衡とは過不足の全体であるとして、足りていないのは食物繊維、不飽和脂肪酸、マグネシウム(と亜鉛、女性については鉄)を筆頭としたミネラル、時に蛋白質であり、過ぎているのはまずもって糖質と(特に動物性)飽和脂肪酸、そして時に塩分というかナトリウムであると思う。そしてこの中でもアトピーを引き起こす筆頭過不足は、食物繊維の不足と糖質の過剰であるように思う。つまりは炭水化物という栄養学的カテゴリーの中でのアンバランスがコアであるように思われる。勿論、そこを解消してから健全かつ屈強な生体状態を獲得するには他の過不足を是正することが重要となるけれど。

次に洗浄という経皮排出について。洗浄行為それ自体を経皮排出とするのは範囲齟齬であるが見逃してもらいたい。この段落の結論を先に言えば現代社会でデフォルトで、または盲目のままに推奨される洗浄は洗い過ぎ、更に言えば殺し過ぎである。適切な表現を与えれば漂白であり、そのような営みの下ではどんなシステムも継続されない。漂白によって喚起される不均衡は、ある時点における皮脂、天然保湿因子、セラミドといった皮膚上内保湿因子及び成分の絶対的不足と、それを追って覆うようにして起こる皮脂の絶対的過剰である。天然保湿因子とセラミドについては絶対的不足が貫徹され、それを覆う皮脂は絶対的な不足と過剰の間を急峻な振り子のように行き来する。その過程の内に皮膚というシステムないし新陳代謝は破壊され瓦解する。この累積、繰り返し、状態から脱するにはまず洗い過ぎず、一方で絶対的不足が継続されている要素を補い続けることである。具体的にはアミノ酸系界面活性剤を筆頭としたマイルドな洗浄剤を使用しつつ、天然保湿因子(市場においてはアミノ酸)とセラミドを継続的に供給することである。洗浄後のつっぱりが気になる場合には皮脂も微小ながら補填してもいいように思う。その際に使い勝手がいいのはスクワランである。なぜならスクワランは人間の皮脂を構成する成分の中でも構成比が「小さい」ので「皮脂による保湿」という事態に対して介入度が小さいのと、それと市場価格も安いし品質が基本的に安定しているからである。

ちなみに私という生体とアトピーの関係については、明示的には幼児期に軽度の小児性アトピーを患っていた程度であるが、潜在的には常にこの炎症因と付き合っており、環境負荷や生体内負荷が高まった時には皮膚における新陳代謝が容易に停滞しているのを感じる。しかしながら有意な知識によってシステムとしての健全さと頑強さを維持できているように思う。

では最後に統合失調症である。今までの論調を継続するとすれば、これはなんの不均衡の累積であり、どんな過不足やアンバランスの全体的な帰結なのだろうか。私という一生体の感覚と考えによれば、それは、コミュニケーションの不足とディスコミュニケーションの過剰の、と表現される。それらを表裏として一纏めにコニュニケーションの不足と表現することは適切ではない。なぜならコミュニケーションの不足は即ディスコミュニケーションの過剰とはならないからだ。沈黙や関係の停止そのものは人間の自我を即時に侵害も侵襲もしない。人間の自我、自己安定性、自己同一性を侵害侵襲するものは、コミュニケーションの不足を補償しようと誤って展開されたディスコミュニケーションであり、具体的には真に到達しない視線、振る舞い、言葉の積み重ねである。更に加えて表現するのであれば、ある個体を分裂気質者とし統合失調症に導く原因ないし背景は、場違いなまでの心理及び論理能力(physical には前頭葉「過」発達)を携えてその場に生まれ落ちた当該個体による、ディスコミュニケーションを翻って真に補償しようとする自殺的な努力と、その自殺によって自我の輪郭が当初より消滅されていること、と言える。つまり彼はコミュニケーションを補償するべく、足場のないままに他者という広大な世界に繰り出してしまっているのだ。勿論帰るべき場所や地点を育む以前の出立であり、よってこの旅はそのままに漂流となる。そのことの悲しみは特殊な道中であり文法も構成し得ない。

統合失調症と呼ばれるものは、ある次元では癌やアトピーと同じものであり、特定の文明内部で世代を越えて継承されてきたコミュニケーションの不足とディスコミュニケーションの過剰が、ある生体の精神または心理、人格と呼ばれる場において咀嚼されつつ展開、表現されたものである。よって分裂器質者による表現は常に、少なくとも深層や背景において、累積する不均衡としての我々の在り方への言及を孕むことになる。なぜなら彼の視線は常にそこに向きながらそこから向けられているからであり、彼の表現はまだ得ぬ輪郭を求めて、新たなる母体としての均衡を志向しているからだ。

そしてその位置付けにない者はそういった視線や表現を嫌悪し唾棄しようとする本能を持つ。それは新たな均衡を実現するコストを忌避するからであり、それ以前に現なる不均衡を直視感知するコスト、というより不快を何よりも忌避するからであり、何よりも彼らの位置付けと役割とは、現なる不均衡を維持累積していくことだからだ。それなくしては全体の漸進も無く帰結もなく、新たな均衡の展望も可能性も生まれ得ない。この記事にあまりにもメタであり破滅的な結論を冠するとすれば、全ての位置付けと役割はそれとして機能して全体的な帰結を相互に編み続けているということ、そして安定と不安定そして均衡と不均衡は経時する対概念、主要な網み紐、基本的な発想の在り方なのだ。そんなことは特定の位置付けや役割に収められた規範ないし倫理を当然に越えている。









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