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科学や神学という telling について




 立ちブリッジを 50 回やったら浮かんだことをそのまま書き出します。現代社会を生きる一市民としてのご愛嬌としてお愉しみ下さい。吐き出す動機としてはいつもの通り「五月蝿い」です。


・科学という telling について

 望遠鏡で遠くを見ようと顕微鏡で近くを見ようと、倍率が閾値を越えれば「みること」に裏返りが起きて、焦点は認知の発生地点へと立ち返り、観察はそこから認知の発生過程を遡っていくことになる。つまり観察者は自ずと「線の揺らぎ」やら「点の明滅」をみることになる。これは物理学や天文学と呼ばれる思惟体系において実際に落着し了解されている風景であると思う。そして私は前提として、「線の揺らぎ」や「点の明滅」といった素朴な図像、図面や映像は、蛙といった原始的な脊椎動物や昆虫といった最低限の自律生命が有する認知世界の全体ではないかと思っている。つまり私達はある時点から、脊椎とか脊髄や進化というものを遡りながらそれを物語り始める。

 言い換え、「みること」が裏返り、自己参照が始まる。

 次には「みえかた」の肥大について記述しておきたい。

 先に「線の揺らぎ」や「点の明滅」といった最終風景があると言ったが、実はこれらは最後に広がる風景ではない。ここでも「みること」にある種の転換や折返しが起きているのだと思われるが、最後の風景は最後の地平からステップバックして、「点の明か滅」ではなく「点の明かつ滅」となり、「線の揺らぎ」についてもその最低次元上の両極の同時存在が観察される。「線の揺らぎ」について起こることを簡単に言えば、「右か左」ではなく「右かつ左」となるのであろうし、点についても含めて何ならもう半歩分くらいステップバックして「点の明と滅と「明かつ滅」」や「線のA極とB極と「A極かつB極」」となっていくのかもしれない、と言いつつ、点についての「みること」の最終風景は理学を越えて工学され工作さえされていると認識している。量子コンピューターである。

 さて、科学についてのこれまでの記述を違う言葉建てですっきりと再表現するのであれば、観察は自己観察への転換を挟んで最低限(認知発生上最基底)の要素に辿り着き、そこからその要素の「ありかた」を様々に組み合わせて複雑性を再度増していく、という風になろうか。往々にして量的な厚みを持たない刹那の世界で構成される風景となるので、当該要素の「ありかた」の同時存在自体が要素ともなり得る。パラレルワールドという発想は私達の認知に埋め込まれているという訳だ。という訳でそんなネタにマジになった個体を私は「認知に喰われた」と判断して可哀想に想う。

 さてさて、前段落における説明を更にすっきりさせるのであれば、これは「根本的な二元を正面から見ることと側面から見ることとそれらの組み合わせ」というようになる。なので先に言ったステップバック(の一個目)とは正確にはピボットであり、ということは認知の始原を表す言葉は二元ではなく境界ということだ。(そして境界による第一次構成物である単位にも注視を与えつつ → )(二個目のステップバックはより正確には、二元の移り変わりを少し距離を開けてかつ斜めから観察できるように、元の観察点に向けて少しピボットバックしながらステップバックもするようなステップバック、という風になる。つまり根底的二元構造というか運動に対するこれまた運動としての観察だ。昼と夜の移り変わりを大気圏外まで行って眺めているような状態を想像するといい。ちなみにその地球の表面に存在する人間(という一時点や一地点)には昼か夜のどちらかしか感じられておらず、未明か逢魔ヶ時にある人々は大抵のこと微睡んでいる →)「明か滅」は明滅を正面から見ていて、「明かつ滅」は明滅を側面から見ていて、運動としての観察によって可能になるこれら幾つかの風景はさておき、もうこの telling の根本は明とか滅という各々ではなくそれを各々とした境界作用に行き着くことになる。実に誠に五月蝿くはないだろうか。ただそれだけのことなのに。

 もし本当にただこれだけのことならば、私は境界作用やそれによる二元に端を発する有象無象の事柄にではなく、境界作用が働く以前の恐らくはまたは願わくば静かな世界に取り組みたいと思う。というかもうそれしかできない。こともないけど軸足はそちらに置いておきたいっていうか誰しもにとって軸足は本当はそちらにしか置けないと思う。


・惰性として神学という telling について

 神学についてはもう、科学よりどうして五月蝿いのかという点に絞って記述したいと思う。しかしそれ(そのような参照点や参照線からの出発から落着)でも意外と神学の本質というか輪郭、全体像を記述することができるのではないだろうか。ちなみに前提として神学というものは、中世ヨーロッパにおけるそれとかとは別に、いつの時代のいつの地域においても形を変えて展開されていると認識している。

 ということで言明したいことは 2つである。

 ① 神学は、観察に際する倍率が中途半端であり、より具体的には人間の限界を遠大近小のどちらにも越えていない
 ② ①を背景として人間的な感情、自己防衛的な感情を免れておらず、純粋な思惟体系となっていないし、それを志向することも出来ていない

 ということでこの記事はもう終わりなのであるが、宗教というものを理論としての神学と実践としての信仰の足し算や掛け算とするならば、後者信仰という実践については語るべきところも学ぶべきところもあると思う。神学に侵犯冒されていない信仰はとても静かだからだ。

 ちなみに tell を現在進行系としているのは、tell という動作の現在進行性を意識して欲しかった、tell を現象として認識して欲しかったから。加えて蛇足として、神話は神学と本質的に異なり静かであって、むしろ認知上の静謐そのものであると想っている。但し神学を逃れた純粋な神話は少ない。








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