寓話 『 バベル完成、 』
バベル完成、
唯一神発生、
唯一神発見。
神様はバベルの突端に降り立った、のではなく、七重螺旋である塔の避雷針様の突端から分泌されるようにして発生した。彼または彼女は限りなく素朴な装束を着こなしていて、絶え間ない言葉を繰り出しながら、しかしながら微動だにせずに塔の突端に鎮座していた。目は地平線そのものに向けられていて、手は何物にも向けられることなく柔らかな円を描き、古代宗教における密印のように何の意味も持たずに完結していた。街の人々に発見されるまで彼は静かに、自分の羽織った物質を手掛かりに世界全体を点検し、自分に巣食った普遍言語を網羅することで言葉を確かめていた。それは神様にとって自分の領分と自分自身を確かめるような自明の内省作業であり、人知れず、人知れずそのような内観を終えた頃、朝の大通りに駆け出してきた双子の少年少女がバベルの塔の突端を指差して、あそこに神様がいると叫んだ。
唯一神の一般的性質、
とその通常業務、
臨時業務の開始。
若く新鮮な肉声を耳にした神様は漸く地上に目を向けた。塔の突端に現れてからその時に至るまでにも、街の人々から夢という、眠りの語りが彼の耳に流れ込んできてはいた。眠りの発する多くの声は問いか願いの形を持っていて、大体は神様やその他の上位存在に向けられていたのだったが、神様はその一つ一つに対して答えることも満たすこともなく素通りして、眠りに生まれた問いと願いをそのまま眠りの世界に寝かしつけてしまうのだった。まるで水面から飛び出しては水面へと帰る飛び魚のように人間の問いと願いは眠りの闇に沈んでしまうのだが、人の眠りを外から照らして眺める神様だけはその一々のアーチを忘れることなく記憶していた。つまり少年少女の若い叫びを聞くまでに、神は神としての通常業務を終わらせていたのであった。物質を点検し、言語を網羅し、人間を願いと問いとして概観する。そして次に控えるは臨時業務であって、彼は世界に衝撃と混乱を与えることにした。世界がそれで断絶するか接合されるかは世界がどれ程に融合していたかまたは断片であったかによる。この点に関する分岐については神様自身もただ祈るしかなかった。神自身による祈りは何の方向性も持たない。そうそして神様は遂に、遂にバベルを完成させた人類に、最終的な逆質問を振り掛けるのだった。
ただ一つの願いを叶えてあげよう
ただ一つの問いに答えてあげよう
それらは何か?
人々の反応と対抗の開始、
バベルの解体と離散の再開。
この問いは発せられたその瞬間に、起きていた者の開いた意識に届き、眠っていた者の閉じられた無意識に響き、そしてそれぞれはそれぞれに、叶えられるべき願いと答えられるべき問いについて思いを巡らせ始めた。これらの問いの衝撃により、眠っていた者は次に飛び起きて考え、起きていた者は次に眠り込んで想い、そして初期の衝撃が過ぎ去る頃になると、この普遍の時代を代表する人々 〜 この時代の言語と装束の完全を身につけた人々であり、かつて彼らが生まれた故郷や辺境の習俗の一切を捨て去ることに成功したと思われる人々 〜 はバベルの塔の最下段に設られた大議場に集い始め、この時代を支える実際的技巧としての教養とされていた事柄つまり共通言語による討論を開始した。これらの人々はこの聖なる任務に心を熱くして臨んだ。物理的側面が強固であった共同大事業の後に、純粋に情報的でありつつ困難な共同大事業を果たすこと。共和と調和の極みに達した普遍文明の勃興を示すようなタイミング、バベル完成のその直後に、遂に顕現した唯一神から双子の問いを褒美として与えられ、畏れ多い応答について討議を果たすこと。人類が失敗し続けたバベルを遂に物理的に完成させた新人類が、その報償として与えられた問いに答える過程で自らの心理世界のバベルをも完成させることで、更なる新進人類として飛躍する機会に直面しているように、これらの人々には思えたのだった。そのような感想と意気込みは人というパースペクティブからは正しいものであるのだった。しかしこの人というものが部分的ないし限定的に操りつつも、一方では人というものを部分的かつ限定的に操るものであるところの言語を、全体的かつ全般的つまり完全に支配することの出来る神という汎パースペクティブから予測されるストーリーにおいては、人はまた違う趨勢に従う運命にあるようだった。そしてこの度においても人の呟く希望ではなく神の唱える運命が成就され、人という観点からすると後に絶望として回顧されるような諸事実が進行したのであった。この寓話の最後にバベルの塔は破壊され、人間は離散を開始し、あるべき漂流を再開したのである。そしてその末に人間は、それまでの成功にて培っていた言語や装束、生活とそれに根を張る文化の共通性と普遍性を手放し、束の間の成功の背後で繰り返されてきた失敗の海に帰っていったのであった。しかしこの成功と失敗という評価と感情についても、人というパースペクティブ、それもある時点に固定された過度に限定的なパースペクティブによって生み出されるものであり、もっと高く広い見地からするとこの度の最後に起こったのは、世界はグラデーションを取り戻し、虹が多彩な可能性を回復したということであった。しかしながらこれは奇しくも人間の寓話であって、語られるべきは人というパースペクティブからであるので、時系列という時間の連綿を遵守する形で話を少し巻き戻し、終わりの神が座した塔が完成するまでの道のりを始まりから語り直すことで、人間というものがそれとして、喪失と離散そして遭難を受苦するまでの獲得と享受、そしてバベル完成に至る道筋を明らかにしておこうと思う。
バベルと人間のあらまし、
幾千の失敗から得られた学習と、
それにより達せられた唯一の成功、
によって失われてきた物々について。
それまでにも塔は何度も建設を試みられ、その度に劇的な失敗と崩壊に帰し、その過程は当事者である人間に喜劇とも悲劇とも記憶され、それら無数の民衆の記憶が多彩な文脈となって物語を織り上げ、または衆生の記憶が取り取りの断片となって物語を組み上げ、その内の一つか二つは永い時間を生き抜き、遠い過去であることの厳粛さを付与された末に神話と呼ばれ、やはりこれら全ての事柄の当事者である人間により、それら当事者である人間のために記憶され、語り継がれてきていた。
このような神話は歴史とは別に描かれつつも、歴史と共に都度都度再構成されながら緩やかな同一性を保持しつつ継承されてきたらしかった。しかし神話と歴史とは混同される運命にある別物である。歴史とは人間に取り現在に至る膨大な因果の連鎖を漫然と記述したものであり、翻ってその営為の端緒となる現在という一点ないし一断面も、とある時代と時間に拘束された限りなく小さな眼に写る幻影のような代物でありまた、地下の闇に蔓延る巨大な根を隈なく辿るような暗中模索を地上に向かって導いて支えるには心許ないと言う他ない、光というより未明の霞のような非実体であるのであった。暴風に揺れる針の穴に、糸を織りながらその糸を通そうとするような荒技として歴史という記述は試みられていたのであって、しかも糸が針穴を通って何がどうなるということなどは意識されていないようであった。つまり目的意識を欠いた荒技というより粗技として歴史記述は継承継続されていて、むしろそれでいいという諦めのような自負さえもが、終わりなき書紀となった殉教者の心理世界に淡く曖昧に漂っているのであった。歴史とはこのようにして人間に取り靄や霧のような揺らぎとしてあり続け、人間はその海に海図も羅針盤も無く突入しながら、その都度都度のサンサルバドルを信じつつも常に漂流していたのだ。これに比して神話とはむしろ明快であり、特にバベルに関する一節は確実な進歩を遂げていた。やはり塔という実体が中心に座すような具体的事業であったことが、人間に漸進的な学習を促したようだった。バベル建設に取り問題となる事柄は人間の目にも明らかであったので、何回かの失敗と崩壊を経た後の人類は、バベルに関する記述から悲劇性も喜劇性も排除して、プラグマティックな機械工のようにして記述対象となる項目を実践的な見地から洗練させていった。塔の物理的構造、建設に際する実際的手法、そして担い手となる人間の存在と動機の維持と管理の方法、つまりこれらの事柄がバベルという神話の一節を独立にそして真っ直ぐに織り成していったのである。建設に纏わる劇性や感情を克服していく人類を時空の果てから眺めながら、神様はバベル完成はまさに時間の問題だなあと、時間と非時間の狭間で感心しながら呟いていた。そしてその時は時として訪れ、人間は遂にバベルを完成させたのである。そのための物理的構造は七重螺旋、そのための建設手法は時機により柔軟に変化、人間の存在と動機の維持管理に関しては、何よりも文化的差異を排除しながら共通の神話を刻みつけることにより対処された。完成の時に向けて人類は、かつてない程に同じ言葉を話し、かつてない程に同じ装束を見に纏い、かつてあり得なかったようにして同じ音楽と物語に興奮し、高揚するようになっていた。地上の人間が唯一のものを共有し唯一性を獲得していくその過程は、文化外交の成功のようでありながらある面においては戦争のようでもあり、このために多くの枝葉が焼き払われるようにして切り落とされ、ただ一つ幹のようにして残った太く強靭な普遍が、その上に在るそれまた唯一なる陽の光を浴びて伸び栄えていったのだった。しかしこれは植物の常態から反する事態であるはずで、しかるが故にやはりこの幹のみで伸びようとする大樹は年輪を重ねることができないのであった。太い幹のみとなった大樹は、繁栄や繁茂といった道筋から当然に疎外されるのだ。メタファーにおける狭量は現実において窒息として実現する。この時代の世界の人々は、心の内と外の両面においてバベルが建設され完成に向かっていくにつれ、普遍の齎らす円滑な疎通と充全とした共有の傍らで言い知れぬ疎外を味わいながら、疎外されている自己そしてその疎外を感じ語るための感情と言語の大部分は既に焼き払われ、切り落とされてしまっていることをまた知らないでいるような別種の疎外にも無意識に苦しめられていたのであった。とある神話の一節の愚直な伸長への対価として支払われた人間の文化的差異と多様性は、落ちる先としての地盤を持たずに過去の暗い虚空へと失われてしまっていた。逆説的ではあるがその一つ一つと全てを覚えていたり思い出すことができたのは、人々による膨大な捨象を必要とした絶対的抽象として顕現した神様だけであり、彼だけは信仰と進行の頂点から我々の来歴を見渡すことができたのだった。いやむしろそのような位置付けとして彼は成立しながらも皮肉なことに、その一点からの眺望を伝えるための言語とその一点である観点を、彼だけは持っていて私達は持たなかったので、神から発せられた報償の問いに応えるために開かれた討論会の行く末についても、その場の内側に在りながら全体を見渡していると過信した人間と、その外側にある高みから全体を超えて周縁そして終焉までをも眺め切っていた神様による予想が、激しくすれ違うだけであったことも当然であった。バベル完成を通過し自分達の共同性と協調性を過信していた人間にとって意外なる紛糾が議場に湧き起こりつつあった論議の中頃、神様は自分を最初に見つけた双子の少年少女の小さな夢に現れて、昔の言葉で嘗ての寝物語を聞かせてあげた。人は夢を完全には思い出さず、過去を完全に思い出すこともない。そして夢と過去を振り返ること、振り返ろうとすることも殆どない。少年少女が目覚めると神様はまたバベルの突端に座していて、その下の階から立ち上ってくる衝突のエネルギーを自らに充填し始めていた。それから何を為そうと云おうとも、エネルギーの始まりであり終わりとなる無の一点である彼にとっては、継続される環流を前提とした充填等は不要であったはずだが、一度目より二度目に手にするものの方が人の手には馴染むのであって、神はまた人のそのような不完全性、故に完全に向けて常に前進しなくてはならない健気を愛してはいたので、その後に地上に落とすことになる熱の全ては、それ迄に起こる地上の興りから吸い上げておこうと、神の気紛れとして決心していたのであった。そして神の意思決定こそは必然かつ偶然であり人間によるそれと本質的に交わらないのである。
さてここで場面を完全に人の地平、バベル最下段の大議場へと転換しよう。そこで人々は最期の共同事業として不完全や断片を擦り合わせて何らかの完全や全体に到達しようと踠きつつ、希望を頼りに絶望を越えて、静かな終わりと鮮やかなる虚無の再開へと突き進んでいたのであった。
バベルにおけるバベル的論議、
何を失ってきたのか、
何を求めているのか、
何故それが分からないのか、
此処から何処へ帰ろうというのか。
多くの人は希望的観測により、神様からの褒章を何にするかは即座に一意に決まるだろうと考えていた。何故なら私達は一つの言語を話し、大体において同じ色合いと手触りを持つ装束を着て、勿論のこと似たような釜から同じレシピに由来する晩餐を分け合うような仲にあり、時間を掛けてそのような濃密な関係性に至り尽せり、バベルを建設し始めた頃からは特に、隣人同士の小競り合いにせよ隣国同士の小規模な紛争さえもが息を潜め、阿吽の呼吸のような共和と協調が空気そして歴史の運行を支配してきていたのだから。そもそもいつの間にか、隣人や隣国と言った際に想定されるような境界線はバベルの建設開始から早くに融解し始め、塔のその中段あたりが空に向けて剥き出された頃には、世界にはただ一つの国と都市と言語しかなく、国と都市は重なってシティとだけ呼ばれており、しかも実際にその言葉を口にする機会はその巨大都市に取り込まれた人々に訪れることもなかった。彼ら人々は史上最大の調和によって共和された集合体に包まれ切っていて、自分達がより広い領域 〜 例えば地球、例えば宇宙 〜 に於いて何処にどのように位置付けられていて、それ故何と呼ばれる必要があるかなんて気にもする機会がなく、気にする必要も生活上、起こりようがなかった。彼らは一つの終局的な安定状態に達していたのだと言えよう。そんな彼らの連帯と親密を説明するに言葉も文法も必要なく、ただ一枚の絵画か写真か数分の映像のみで事足りただろう。一眼で見て取れる真実として彼らは連なり、繋がり合っていたのである。食事を最たるものとして彼らは生活上の様々な層と側面に於ける相同を原動力とし、生理を侵襲してもはや遺伝子のレベルで収斂していく途上にあったのであり、この時代に生まれた二卵性双生児などは嘗ての時代の一卵性双生児かの如く似通っており、それを超えてこの時代の一卵性双生児は神話に出てくる合わせ鏡のように振る舞っていて、実際に彼ら一卵の双子はこの時代の倫理や道徳といったものの体現者として引き合いに出されており、二人して中央機関の要職や地区上層の役人に抜擢されることも多かった。勿論のこと、あらゆる文明の推進力はそれがその内に孕む一様性と多様性のバランスに宿るものであるから、シティという、呼ばれることのない名を忘れられてさえいる史上最大かつ当代唯一の都市国家は、その推進をバベル完成と共に終息しようとしていたとも言えよう。直進を永続した永遠なる平行線は強力な磁場による歪みを受けて、いつの間にか一点にて交錯しつつその一点に吸い込まれて消滅しようとしているのだった。これはまさにバベルという円錐のメタファーでありバベルある街の運命を予感させる素朴な幾何学であった。より具体的な実側面においてシティでは、言語や装束そして食事等の生活習慣が一様に収束してから暫くすると、それまでの医学や医術、民間療法によっては対処できない奇病や奇形が散見されるようになっており、近頃では殆どの市民が、シティが都市として成熟したばかりの黄金期における平均的な知的水準を満たさないようになっていた。そして幸福という状態を福祉という介入なしには語ることのできない状況が展開されていたのである。なのでバベル最下段の議場にて開始された討論が意外にも長引いているという事実も、神か歴史のパースペクティブからすると自然か当然のようなものだった。磁場に引き付けられて緩やかに歪んでいった平行線は既に無の一点にて交錯しつつそこに吸い込まれるようにして消滅しており、結果としてその推進力も方向性も、そして終着点や前提までもが消え去っていたのだ。それは繰り返し、バベルの塔が天空に向かって突端を飛ばすように伸ばして遂に完成しサグラダファミリアであることを辞めたこととまさにパラレルであった。そして二本の直線が交錯して無の一点に吸い込まれたならば、そこから起こるは違う世界線での展開か、違う世界観への転換か、または単に虚無である。されどまずは現実に展開された議論の内実を人間の視点から覗いてみるとしよう。都合よくここバベル最下段の議場には書紀として、最初に神様を発見した一卵性双生児の片割れであるマルクが忙しなく動き回りながら筆を舞うように動かしている。彼は妹のアルカ嬢との知的乱反射のような十年によって平均的個人の三十年にあたる知的生活を済ませており、その能力の高さと若さゆえの可憐を買われてバベルの議場書記官としての地位にありついていたのであった。彼の手による速記調のメモと今現在に繰り広げられている議論の暫定的終着模様から、シティを代表するインテリ達による討論の内実を浮かび上がらせるのであれば以下のようになる。
1、非内実(語られなかったこと)
まず持って意外であったのは、人間を神にのし上げて欲しいという願いであったり、私達人間は何処へ行くのかという未来への問いであったりは、選ばれることもなければ口にされるもなかったということだ。今以上の上昇や前進を忌避しているかのような空気が議場を満たしている風ですらあった。彼らは自分達の集っている段の上空、バベル最上段から突き出た避雷針様の突端に座している我らが唯一神の存在と存在感に畏怖してなのか、分かりやすく欲望的な願いや余りにも本質的な問いを選ぶことに気が引けているのかのようで、書記としてそこにあったマルクや議長としてそこにあった年配の市民も論場の空気をそのように解釈していた。しかしながらその上空、地と空の狭間の一点に触れることもなく鎮座している神の視点から見られる情景においては、先程述べたような幾何学様の理解が展開されていて、つまりもう構造は形成を終えており、これ以上の上昇や前進、展開や発達は、それまでの上昇と前進、展開と発達を担ってきた人々によっては享受も成就もされない運命にあるとされていた。物事の段階はそこにまで至っており、よって人々は残された方向と領域に目を向ける他なく、それは過去や欠損、喪失と呼ばれる逆方向と非領域であるのだった。語られることのなかった非内実において、逆方向と非領域が言葉無く静かにしかし着実に語られているのであった。そのような深層から生え出る強烈な作用に当てられて、上昇と前進へと向けられることを拒んだインテリ達の知的エネルギーは三度過去へ、過去の欠損と喪失へ向けられて、失われた世界に蔓延っている巨大な根を辿るために浪費され始めた。開場の儀にて唱えられた和合の文句は虚しく忘れられ、安定した構造と推進が終わってしまったことの喪失に誰もが直面しているようだった。喪失の向こうに広がる漂流の様な虚無の強さは言語能力や認知能力の高さと比例しているようで、最も信頼の置かれた論者ほど今回は口を揃えて噤んでいる風景を、マルクを筆頭とした議場の新入りは不思議そうに眺めていた。
2、内実(それでも語られたこと)
バベル完成により何を得たのか、そして完成の褒賞として何を得ようというのか、というシンプルかつ強力な前進的提起に支持されることなく、議論の様相はただ消極や無力へと霧散するように退行していった。推進力を持って坂を登っていた水の流れがエネルギーを失って推進を止め、よって解かれるようにして散らばりながら坂を漫ろに降っていくような風景がそこに実現していた。一つの和と輪を成してきたし、この度も成すはずであった論場の実際は、親しい家柄にある者共を束ねた小さな輪の幾つかに分解されて、彼らはそれぞれに、最終的に得たもののために道中何を失ったのか、失ってしまったのか、失うことになってしまったのかを、議論するというより懐かしむように慰め合ったり、その責任を自分や自分達でない誰かに帰属させて罵倒し合ったりさえしていた。この時代のバベルが建設され始めたのは今現在の最年長者が幼少の頃であったから、ここバベルの議場には、バベル完成に向けて世界と文化が差異を手放し統一へと向かう前の散漫な諸時代諸地域の記憶を有している者もまだ在れば、彼らによる昔話を記憶に留めている者も在ったのであるし、また極少数であれどマルクを筆頭に、祖父母の振る舞いに微かな異国情緒を感じ取ってきつつもその由来を問うことのなかった最年少の世代も在ったのであるが、予想されることのなかった紛糾と停滞が彼ら三代三様の者共によって、ここバベルの根幹である最下段の議場にて奇しくも同時に実現されてしまったのであった。そしてこの緊張を孕む停止の中で論場にあった者共は世界共通となった普遍言語では表現することすらできない記憶の断片、思い出が胸に仕舞ってあったことに突如として気が付くと同時に、同郷の者にその郷愁を伝達することさえできないでいること、そして何より伝えるための言葉や概念さえをも失っていたことに気がつきもしないでいたことに、それぞれ独り切りで人知れず胸を痛めたりしていた。そのような切ない吃りの合唱が議場に散らばる幾つものサークル 〜 その数はシティとして融合し成立する以前の隣在する小都市国家群の内数に一致しており七であった 〜 から響いてきて、その無音のメッセージを書記としてどのように記録に残せばいいのか、真面目なマルクは心苦しそうに思案していた。
三代程の年代的広がりを持つバベルの論者達はこのようにして、かつての現在であった現実の過去を懐かしんだり、その過去の語りを聞いた幼少の記憶を懐かしんだり、過去の風情を留める年長者の姿から想像される、嘗ての地上を覆っていた散漫で多様なる諸世界群への憧れを今になって抱き始めたり、 それぞれにとって必要であるような精神的退行をそれぞれに示していたのであったが、ここまでくだくだと説明された退行模様の実際的要因や背景は、彼らがただもう文明であることや文明として推進することに疲弊していたという一点に、神の眼においては収束しているのかもしれなかった。そして上空に座す神に届けられた結論は結果として、願いとしては帰りたい、問いとしては何処へ、となったのであるが、それは議場にて明示的に採決されて神へと献上されたものではなく、論者共が望郷の念を語り尽くした直後に訪れた沈黙の一瞬に、議場にあった全ての者共の心の空白を占めた刹那のイメージから、神が自らにより上から言葉として抽出したものであった。そうして願いと問いを聞き届けた唯一神はバベルの突端から不意に立ち上がり、ほんの少し宙に浮いたかと思うと、手によって編んでいた円をゆらりと解いて、片手を地へ、片手を天へ向け、それまでの神話にも現れることのなかったほど巨大な、落下する世界樹のような雷をシティに、自らの座していた無の一点、バベルの頂点へと落とした。
稲妻一線・分裂崩壊、
グラデーション再生、
マルクとアルカの記憶、
唯一人の神の一人語り。
通常の雷は一点から始まり無数に分岐していくものであろうが、この度地上へ遣わされた稲妻は無数の点から一点に収束する逆さまの世界樹のようにしてバベルにその太い幹を衝突させた。その衝撃により七重螺旋を中核構造としていたバベルはその身を解き、螺旋を巻いていた一糸一糸のそれぞれは通電の衝撃と衝動により直線となって中空に伸ばされ、一瞬の静止を孕んでからゆらりと地へ向けてその身を堕とし、自身であったところの塔を内側から華開くようにして破りながら展開、地表を破壊しながら地上を七等分したのであった。多重螺旋の一糸一糸はこの時代の工学の粋を尽くして織り上げられた鉄鋼線であったが、地上のスケールに降りてきたそれは線という次元を越えて鉄鋼の壁となりかつての大都市国家を中心として世界を七つに切り裂いていた。議場にあった殆どの人々はその場で潰されるか生き埋めになって事切れたのであったが、マルクを含む極少数の人々は無傷で生き延び、自分達の論議の何が神の逆鱗に触れたのか、人間としての最大級の畏怖を抱きつつ首を傾げていた。ただ一人その中でマルクは最後の瞬間に何となくメモとして書き留めていた文章を読み返しながら、もしかしたら神様は人間の願いと問いを汲み取って、叶えそして答えてくれたのかも知れないと思った。そして完全に崩壊した塔の残骸、無数に散らばる煉瓦と鋼鉄の欠片と断片を踏み越えながら、マルクは二つのことを思い出そうとしていた。一つ目は、彼マルクが妹のアルカと最初の朝に神様を見つけた時に、神様が地平線とその向こうを眺めながら寂しげな微笑みを浮かべていたこと。二つ目は、バベルの議場で討論が始まる前夜の夢にて、同じ寂しげな微笑みを浮かべた誰がしかに、アルカと一緒にお話を聞いたこと、そしてそこで語られた風景と情景に、記憶に無い懐かしさを感じたこと。それら二つを思い出したマルクは安心してアルカを探しに出掛けた。アルカは北から時計回りに数えて三つ目の同区画にて、倒壊した家屋の側壁の下敷きになっていたのだが、奇跡的にというか神様による具体的奇跡として無傷であり眠りの中で夢を見ていた。そしてバベルの突端から雷によって自らを切り裂きながら姿を消した神様から昔話を、夢の国の世界樹の傍で聞かされていた。神様はアルカに世界の奥底に沈む秘密を微かに示しながら、妹を迎えに来る兄と共にこれから何処を目指せばいいのかを静かに教えていた。君を生み育てた人々を生み育てた人々が、生まれそして栄えていた土地の匂いを思い出すのだよ、そのように神様が言うとアルカは私そんなに鼻がよくないのと答え、神様は子羊に向かうように優しい音色で、迷った時には眠れば夢が教えてくれるだろう、例え過去であろうと匂いでも、と、夢の中の寝物語のように呟いて、夢の中で更なる眠りに就いたアルカの意識は丁度マルクに叩き起こされ、彼らは二人はバベルの残骸を中心とした新たな世界の一片を、まずは探検しようと旅を始めた。
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雷が自らを打つその一瞬に無の一点から異なる世界へ吸い込まれるように回帰していた神様は思い返していた。回顧し反省していたと言ってもいい。何をまず新しい世代に吹き込めば、バベルといった想念の中核構造が窒息せずに完全成就を迎えることができるのかということを。それには物的な躍進が人間の神経に更に必要とされるのだろうか。または純粋に情報的に、今ある多次元が一つの次元へと集約ないし圧縮されて、その上に更なる多次元が構成されるような再起的次元発展とそこからの展開が必要となるのか。しかし彼自身にとって未だ判然としないのは、そのように刷新された更なる多次元のキャンパスに描かれる絵画、彫られ刻まれる彫刻、流される映像や演じられる歌劇は、まともな幾何学ないし流体力学として安定した一点や一筋の流れを指し示すことに成功するのだろうか。このような文脈にある事柄を、一つの世界が終わった束の間に考える時の最後にはいつも、神様は癲癇のような発作に襲われて、発作の煌めきが隣り合う他世界である人間の世界に干渉し、地震を起こして海を掻き混ぜ火山を焚き付け、そして人間のイマージュの揺籠を揺らすのである。そして神様の呻きそのものを聴き取ってしまった人間は、人間の世界で人間のための癲癇を起こし、その揺れがこれまた人間の世界に、神様の預かり知らぬ転換を促してしまうのであった。