1 ・ 物語 『 名残 』
「ああ、ここに名残があるね。」
ルーフはその向こうから差し込む日の光に目を細めながら、まるで大切に痛切な、それでいて膨大な過去を思い出しているかのように呟いた。返答しない私を尻目に少し苦しそうにもしていたが、一瞬の苦悶を流した後にはいつものルーフだった。この人は本当にいい顔をしている。なんでも知っていそうでいて何も知らなさそうな、何でも聞いてくれそうでいてあらゆる物語を孕んでいそうな、捨てることを知っている音楽、図書館のように流れ続ける一つの川、あらゆる海に流れ込む空。
「これ、その時の言葉で「自由」を掲げているんでしょう。」
「そうだ。私たちには音として読めはするが分からない。この名残を再生するには沢山の時間と人間を必要とするだろう。」
この時には私はもう、ジムナジアで幾つもの名残の再生を経験していたのだが、ここにある名残はそのどれもより抽象的~またこれも名残であるから、私たちの音と意味として q に近いと言っておこう~であるような気がした。この名残を再生するには、時間とか人間、ルーフがそう呼んだ生命を、「所有」よりかはずっと多く使ってしまうことに私でさえも気づいていた。だからその場所はこの時に削除してしまったほうがよかったのかもしれない。でもそれも、しなかった場合に振り返ってのみ思えることだったのだろう。こんなこともまた記憶の綾なのだ。
「この名残は何をどれだけ焼き尽くして耕したのかな。」
「分からないな。それこそが再生されることだもの。」
自分の無邪気さを試すように無意味な質問をした私は、ルーフがどのように答えようと満足していて、彼が一人きり意識の隅の方で、既にその「自由」を再生しつつあることに気がつかないでいた。私は私の満足を伝えようとして彼の手を取り帰ろうと言った。ルーフはいつもより緩慢な動きで私をハウスへと引いていった。晩餐の時にはもう違うルーフになっていたから、この時にはもう山場を超えていたのかもしれない。ルーフの再生は本当にすごいな。百人が百年を必要とする名残を、一人で小一時間で蘇らせてしまう。受け取る記憶もそれだけ大きいのに、彼の感覚や感情が摩耗しないのは、それだけ生命が大きいからだろう。彼の母親はどこにいて何をしているんだろう。誰も彼も見たことがない。
***
翌朝、ルーフはもっと違うルーフになっていたので、私は一人でジムナジアに向かった。ルーフはいつも通り送ろうとしてくれたけれど、彼の微細な変異も多大な変質も察知していたから、繋ぐ手の質感も違うことの悲しみを想像した上で断った。私たちは悲しみを拒絶するのではない。悲しみに至るまでを想像して味わい、それを無為に現在に繰り返さないだけだ。その朝に私を送った~場合の~ルーフはそのままハウスに帰ってこなかった。その場合のその先のことまで彼もまた想像していただろう。あれだけの再生を一人でやり切れる彼なのだから、また違う場合のもっと先あらゆる可能性までをも想像していただろう。私の断りを受け入れた彼は柔らかな無表情をしていた。あらゆる可能性が現在に終着する時、人は誰しもこんな表情をする。こんな収斂は私たちにとって逆行ではなく日常で、人間がそのようになってからもう幾千の歴史が通り過ぎ、そうなるまでには幾万もの歴史が費やされたと聴く。というよりその一つ一つを再生して元のように繋ぎ合わせた。これ、私の抱える開いた全体の一片も君は知らないだろう。この名残は全ての名残が失われた時のために書いているのだから。
「おいレイ、今日の再生は 0 ってのらしいんだけど、この前の小さな言語はそいつをレイって呼んでたらしいぜ。」
「え、またなの。小さな土の小さな言語だよね。その時のそこの人たちは「レイ」が好きだったのかな。ねえ私じゃないよ音だよ!」
カイルがいつものように私に絡んできた。無理のない作用の全てが嬉しい。瞳や他の幾つかの部分が濡れていく。カイルは既に触りくらいは一人で再生したらしい。音に込める感覚と感情が私のそれと違っていて、ほのかに熱い厚みを感じさせた。この人は私への好意と興味を動機に、怖くても一人で再生してくれたのだ。そこから溢れる記憶と歴史はささやかなものだったろうが、カイルの無垢と純粋に私のそれも反応した。あれ、私って今、凄く名残で考えていたかもしれない。無垢とか純粋って少し前にみんなで再生した名残でしょ。再生を繰り返すと時たま、再生の記憶と生の記憶がごちゃ混ぜになってしまって、喋りや感じ、考え方に影響が出る。これを後遺症と呼ぶ人もいるけれど本当は、本当に再生した人の本当の形なんだと思う。例えばルーフには生と再生の異なりがなくて歴史に近い。こういうことのグラデーションは今もあるよ。だから絶対の孤独もまだあって、これは今でも名残じゃない。
ジムナジアには既に幾人かの人がいて、大体は同じ世代にある人だったけれど、もちろん許されるようにして他の世代の人もちらほらと混ざっていた。そのような触媒が名残の再生には必要であるし、触媒となること特有の楽しさもあるだろうから、この組み合わせはいつも通りの最善だった。また幾つかの名残が混入している。最近ちょっと酷いけど楽しいな。あれ、ルーフもこれくらいの時からこんな感じだったのかな。カイルが私の隣に木箱を置いて、その上にゆったりと座り込んだ。私は彼の膝か足元に座ろうと思う。あちらで立ちながら臨もうとしているのはミルカで、多分彼女はカイルのことが好きだ。こういう好き好かれってやつの交差点を霊と呼んだのかな。それだけじゃないけれど、私たちが記憶とか歴史って呼んでいるものの結び目や織り目のことだったんだろう。折り目になるのは運命だったのかしら。こんな風に、再生したものを生に見返していくことは楽しい。それだけ私の生が再生を受け入れて、熱い厚みをもつようになっていく気がする。この言葉はさっき使ったよね。でもそれでいいのこれは q に近いから。カイル、また少し痩せたんじゃない。膝頭がちょっと硬いよ。
だとか戯れていると誰かがドーズを始めて私たちは再生に入っていった。
***
その記憶の始まりは触れる度にずれながら、しかしながら儚い円を描きながら舞っていた。どの名残の再生の感触とも似ているが、そのエッセンスを微風で揮発させたように繊細だ、とかを私の記憶に、書き留めてい る ともっと深くに始まってい った
何もない が ある 向こうに そのないがある から幾つもの方向が生まれては列をなし それがま た 点に収斂して 無限に近づく 最初の極限 の 違う名の母 血抜きされた神 あらゆる境界線の交差点 白に反転する直前の黒の直後 でさえない と呼ばれるざる負えない十字架 の 何もない重なり
カイルだったものが 0 をうらぶっている。ミルカだったものが溶け合いながら失われ、その中で 0 を許嫁に紹介しようとしている。0 の周りに戦争が生まれて、そこで生まれたニッチを些細な生活が埋め尽くした傍から縦横無尽の生活がまた失われた。0 を呼んでうおおおおおおと叫ぼうとした聾唖の盲人がいた。彼を含めたあらゆる隣人に囲まれながら 0 は柔らかい無表情を崩して本当の表情へと帰った。繰り返しの中で確信した幾つもの数字に謳われながら 0 はまた無邪気にもあらゆる表情を模倣して解き放った。そこにある色を表現するための言語を有象無象の人間が生み出そうとした傍から 0 はそれらを食い尽くしながら充実し、無色透明としか呼びえない無意味の言語を創造しつつある過程を 0 は最初から極端に眺めていた。
ルーフ!ルーフ!助けて!私呑み込まれそうなの!どこにってその 0 のまあるいところに呑み込まれそうなの!くぐってその先に行こうとしたのに私だけそこに捕まるの!カイルもミルカも触媒の他の人たちもその先に行ったと思うわ!この名残ってすごいわね!私たちっていう諸世代にも負けないくらいの記憶を詰め込んだ歴史のような人々が、生きる他のことを捨てて紡いできたんだわ!!ねえ私ってまだ神さえも再生してないのよ順番を間違ってるわ!!ねえ誰か助けて、そこにいるんでしょ、ねえ誰か助けて神様!!終わらない谷のフィヨルドに全部の全部を詰め込んでよ!!!!!!!!
***
気がつくと再生は終わっていて、名残の記憶から帰ってきた人々は、私を私たちの歴史に抱き止めようと、心配して私を取り囲んでいた。あれまだ私って再生してる?全然言葉が帰ってこないの。あ、あ、ハロー、ハロー。みんなそんな目で私を見下ろさないでよってあ!そこにいるのルーフじゃない!私の額に指を触れてよ。そしたら私は孵ってくるわ。
「だめだなこれはしばらくは帰ってこないぞ。」
「記憶があちらの歴史に絡みとられたのかもしれない。」
「分かりきったことを言っても仕方じゃないか。」
「でも悪いことばかりじゃないよね。」
「まあ久しぶりだからね。おいカイル、大丈夫だよ泣くなよ。消えるのではないんだから。」
「あ、ルーフ!ルーフ!お前のレイが帰ってこないんだから、手を引いて連れて帰ってきてくれよ!お前はずっと見ているだけで卑怯なんだから、指の一本だけでも触れてどうにかしておくれよ!!」
私以外の誰もはカイルの敵意~意志に多少の合わさりがなければ抱き得ない生の含意~を不可思議に思いながら私の前に道を開けた。彼の言っていること、呼び招こうとしている事態はもちろん的外れではない。私は一つの可能性としてレイの額に指を触れて、彼女を彼女の奥の方から引き摺り出そうと思った。
「ねえ、起きるんだよレイ。もう時間、こちらの始まりだ。私だってこんな、分かりきったような真似はしたくないんだよ。」
ルーフの指がレイの額に触れると、先ほどまで遺体と化していたレイの肢体は弾力を取り戻し、水晶体は焦点を回復して意識は意志も取り戻していた。
「あ!ルーフ!ルーフ!私ね、多分初めての神様に会ったの!」
「それは様なんてつけなくていいんだよ。しかも君と別にあるわけでもない。大事に抱き取ったままにしておきなよ。」
ルーフはまた柔らかい無表情に戻りつつあったけれど、起き抜けの私の目は、彼の目にまた一瞬の悲しみが横切ったことを見逃さなかった。そしてそれを問うことを止められなかった。
「何が悲しいの?ルーフ。」
人々はひとまず私が喋り出したことに安堵した。喋ることは生、今の歴史に接続されるための営みだからだ。だから物静かなルーフが怒りを露わにしたことにみんなは突如驚いた。ルーフは額がひっくり返るような勢いで目を見開き、むしろ自分を自分で眺めようと眼球に無理な運動を強いるかのようにして、激烈な緊張を込めて私に応えた。
「何が、悲しい。何が悲しいっていうんだ。いつから何が、何を失い続けいているのか、お前にそれが分かるのか。分かった上で帰ってきたんだな。それならお前にこの悲しみは分かるはずだろう。どうしてお前は帰ってきたんだ。」
私には彼の返答が分かるようで分からないで、それでいて心のどこかに刺さるような気がした。さっきの名残の 0 の間に吸いこまれそうな時、あのときに留まっていたら分かったのかもしれない。でもそのままだったらこのように彼を悲しませることもなく、私の問いも彼の返答もなかっただろう。つまりは目覚めた時には全てが決まっていたのだ。いやいつから何が決まっていたのだろう。それらの何を私はどうして決めたのだろう。それらは本当なんだろうか。ここまで感じて考えた私には片鱗が掴めたようで、つまり彼の悲しいはこのことだったのかもしれない。けれどこの時の私は彼に共感を示すことができなかった。思い出すことで決定され続けていく運命に、想像し尽くしつつも耐えることの寂しさを言っていたのかなルーフ。それは今の私には分かるよ。でもこの時の私はその時のループに嵌っていたから、どうしてもその一言を伝えることなんてできなかった、許されなかったの。ごめんね。この物語は懺悔なのよ。
私にも私の怒りがどこから湧いてきたのか、いつものように完全には掴めなかった。昨日の帰り道から私は強く深く再構成されていて、その渦の中心を占める名残から風が吹いてくるようで、その風は渦の流れを無に返してしまうほど強く、つまりは私は自我の輪郭を欠き始めていた。だから私の言葉は呻きのようで、だからこそ意味はなく迫真なんだレイ。このことに無理に付き合わなくていい。でもお前にはいつか分かってしまうだろうね。君は私の揺れる合わせ鏡なのだから、遅れてやってくるドッペルゲンガー、そのずれの分だけ変異を受ける双子の妹、私の悲しみをどうか分からないでくれ。この繰り返しだけは大きすぎて私達には耐えられないだろうよ。私達という輪郭がまた変異してしまう。もしそれでいいと貴方が思うならそうするがいいよ。私はそんな出来事の母体とはなるが主体とはなれないから、あとは君たちの世代で選ぶんだ。ああっとこれ、声に出してないけど、目線でも伝わらないだろうけど、近い将来レイ君が私の視点に立った時、再生してくれればそれでいいよ。
この会話を私はしていない。その夜にルーフはハウスから消えた。そして海を渡りながら「自由」を再生し切って大陸に移り住み、そこから戦争を連れて帰って来た。全てを焼いた彼の帰郷は帰るべき村も森も焼いた。後に残ったのは自由、新しく響いたのは歴史の白紙だった。その冒頭にわざわざ、それまでに過ぎ去った全ての文明と歴史の名残を書き上げたのは私で、そんな散文の上にあなた達カインの末裔は、繰り返しと移り変わりの双生児を産み落とし続けている。