父親(○○中)

それから別居は続き、高校入ったぐらいの時期に、急に、母が、『お父さん帰ってきてもらおか。反省しとるって言うとるし。あんたらにはお父さん必要やと思うし。』と言ってきました。その時には勘づいていたのですが、母は好きな人がいました。父と別居している時に何度か、知り合いと言いながら家に来ていた事があったので、すぐに分かりました。どうやら、父親は母が長い間他に好きな人をいる事を勘づいたみたいで、それで携帯のメールを見て、母親に暴力を奮ったみたいです。母は『私も悪いとこあったでやり直そうと思うし、離婚したら生活もしていけんから。』と。

でも、母が父親を頼りに出来ていたなら他に好きな人も出来なかったのです。私が小さい頃から、育児、家事は全部お母さん、風邪ひいて動けないのに、放ったらかしにして飲みに出て行く、ほぼ家におらず、母が頼りたい時にいなかったのです。弟が生まれてから知的障害があると分かってからも、お母さんはショックと育児でノイローゼになりおかしくなりました。夜泣きが酷く泣きながら母が、『お願いやから傍におって!』と叫んでも、無視して出ていくような父親でした。ただ生活費を稼いでくるだけの同居人。父親と思った事は1度もありませんでした。ましてや、自分を殺そうとした人と何で一緒に住めるの?と思いました。

でも、自分もその時は進学したかったので、父親いないと学校にも行けないのか、とか、母からお金が無いと暮らしていけないから、我慢して。と言われ、再び一緒に住む事になりました。

でも、簡単にいくはずは無く。結局一緒に住み始めてからも無言の威圧は続きました。更に過去のトラウマがあるから、母も私も怯えるようになり、私は父の顔を見るだけで吐くようになってしまい部屋に籠るようになりました。母親も、精神的に参っていて、家にいる時は常にお酒を浴びるように飲むようになってました。弟は、精神障害も併発してしまい、お父さんを怖がり、お父さんが近づくだけで怯え震えるようになってしまいました。父親の車の音が聞こえるだけで私は腹痛を起こしトイレに籠るようになりました。中学の時からありましたが、ストレスから吐き癖、腹痛、過敏性腸症候群が酷くなり、学校でも、お腹をくだす事が増えました。母も私も疲れきってしまい、もう死にたいな。と思っていたし、母から『もう死のか。皆で。』と言われました。私と弟が小さい時にも死のうとして、『あんたらの顔みたら死ねんかった。でも、もう辛いわ。』と泣きながら言ってきました。その時はスルーしました。

その後は、ポストを見たら検察庁から封筒が入っていて、何故?と思って見たら、父への出頭命令の封書でした。意味もわからず、母にあの人、犯罪者なん?何をしたの?と問い詰めました。

以前にも書きましたが、変な匂いの正体、シンナーでした。私が小さい頃からたまに隠れてやっていたそうです。そして、常習化した頃に攻撃的になったと言います。外でも車の中で吸引していたのを警察に見つかったそうです。だから、急に身体やつれて顔もおかしくなったのかと納得しました。父親が前科持ち?シンナー?薬中と一緒やん。気持ち悪い。理解が出来ませんでした。酷かった時も会話が支離滅裂な時もあり、父、人間終わったんやと思いました。

あー、もう死んでもいいや、この苦しみから解放されるなら。って何度も思いました。

でも、私は高校に入ってから作業療法士になるという夢が出来ていました。そして、家にお金が無く、バス、電車の定期代、車の免許も積立分の半分しか出してあげられないと言われてました。ただ、進学のお金はなんとかするからと。自分の必要なお金は自分で稼いできて。と言われ、学校のない日は、アルバイトをして休憩削ってフルタイムで働いてました。単位を落とさない程度に学校休んで働きに行った時もありました。そして、バイト先で初めて何でも話せる皆年齢はバラバラでしたが友達が出来ていました。学校の友達は、親が仲良くてお金にも困ってない裕福な子が多かったので、相談した事は無かったのですが、バイト先で仲良くなった人達は家庭環境が複雑な人が多く、家族の事を初めて相談出来る友達が出来たし、親身に相談も乗ってくれたり、車で遊びに連れってくれたりしました。あとお金欲しくてめちゃくちゃ働いてたので社員さん達にも頼りにもされて、応援してもらったり、褒めてもらえる事で、アルバイトに行く事が楽しくなっていました。生きていて初めて、楽しい、私を必要としてくれる場所、人がいて、夢もある。私幸せやん。と前向きにはなり初めていました。

通っていた高校は、専門高等学校で、国家資格受験があり特殊だった為、1日8限授業が普通でした。家に帰ってからも寝る間を惜しんで勉強し、成績が良いと特待生枠で高校から補助金もらえたので、アルバイト以外の時間は部屋に篭って勉強していました。

色々考えてたら、こんだけ努力したのに、私の人生今からやのに、お金無くても働けば入ってくるし、作業療法士になって母と弟、私が養えば良い、せっかく生まれてきたのなら、まだ死にたくないな。と思い始めました。どうしたらいいか考えました。進学費用は祖母が学資保険を貯めていてくれたので、大丈夫だし、アルバイト資金を貯めていて少し余裕がありました。それを生活費の足しにしてもらったら良いと思いましたし、実際、既に生活費助けていたので一緒だなと思いました。

父親は、私には愛情が残っている人でした。ただ私は拒絶していたので、あまり話した記憶は無いですが、私から離婚して欲しいと言われるのが1番ショックだろうとも思ったし、母が言うよりも効果があるんじゃないかと思い、母に相談してから、父にメールをしました。1度離婚して欲しいと言ったそうですが、生活費も慰謝料も一切払わないと言われて諦めたそうです。

お願いやから、お母さんと離婚してほしい。家族の生活は私が見るし、もうこの精神的な苦痛から逃れられるなら死んだ方がマシ。でも、あんたの為に死にたくもない。顔を見るだけで吐いてしまう。これ以上私らの人生壊さないで欲しい。私の前から消えて欲しい。

こんな内容を長々送りました。その翌日に、母に、『俺、出てくわ。今までごめん。』と言い出て行きました。私には、『今まで苦しめてごめん。消えるわ。幸せになってください。』とメールが入ってました。そして出ていった後、家のローンもあったし、母も身体が弱く、私にあまり負担を掛けたくないとの事で弟が成人するまではと、給料の半分をくれるようになりました。まだそんな良心あったんだ。とは思ったけど、私はそれぐらいしてもらって当たり前だと思っています。10年以上苦しめられたんですから。

それからすごく心が軽くなりました。生きてて良かった。報われた。やっと楽になれた。やっと終わった。と。

それから9年間会っていませんし連絡してません。

2年前にたまたまコンビニで会いましたが、学生時代からだいぶ私が痩せたのもあり、分からなかったんでしょう。前にいても、気づいてなかったです。

結局父親の件はこれで、終わりましたが、次は母親の事で悩まされます😂



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