近未来、日本はメガコーポに支配される
はじめに
こんにちは、ふぃるです。
すみません、今回はちょっとキャッチーなタイトルを付けたくなってしまいました。
でも、読み進めて頂くと、あながち釣りタイトルとも言えないです。
最初はいつもの様に、リベラリストやリベタリアニスト、コミュニタリアン、そして保守主義者やネオリベといった、目の前にある思想を地味に探索します。
それが何故、メガコーポに支配される話になってしまうのか!?
展開にご注目頂ければと思います。
右左派の変化
以前「政治思想マトリクス考察、或いはリベラル/パターナルとは何か」という記事で、リベラリズムとリバタリアニズムの区別について書きました。
そこで挙げた一つの区別の仕方として、権威/権力をどの様なものと見做すかというのがあります。
国家は当然大きな権力を持っていますが、実は親子間、男女間、労使間など、身近な関係の中にも自然発生的な権力構造を見い出す事が出来ます。
時に国家の力を借りてでもそういった身近な権力構造から自由であろうというのがリベラリズムであり、自然発生的な権力に比較的注目せず国家権力から自由であろうというのがリバタリアニズムとみる事が出来ます。
この様な、自由という言葉を軸にした説明が成立する限り、リベラリズム/リバタリアニズムは、求める政策は別でも、自由主義を名乗れる範疇にあったと思います。
しかし昨今は、リベラリズム、即ち社会自由主義の、社会主義としての側面がどんどん強まっている様に思います。
最早、自由という言葉に収まらない範囲で、平等などを求める思想に変化していっているのでは無いでしょうか。
一方で、右派にも変化が見られます。
一時期ネットを席巻した露悪的なエンタメ、或いは沈みゆく国家を見ぬふりをして国粋主義に浸る様な右派は少しずつ減ってきて、より切実な保守回帰派が増えています。
つまり、与党や現在の世の中に不満があり、より道徳的で、調和の取れた社会を求める人達です。
保守といっても国内の経緯にばかり注目するのではなく、バークなどに遡り、客観的なシステムとしての保守を見直すという様な左派的なアプローチも比較的人気が高まっている様に思います。
日本国内のオルト・ライトのうち、陰謀論を共有しない層が、急速に穏健化した姿と言えるかも知れません。
反新自由主義の糾合
前回書いた「コミュニタリアンの実像」では話がややこしくなるので触れませんでしたが、こうした右左派の道徳回帰路線の受け皿として共同体主義と言う言葉が使われている流れを、ひしひしと感じます。
彼らは右左派の垣根を超えて「新自由主義(ネオリベ)、大量生産大量消費、格差」をこそ敵と見做しています。
保守がリベラルを批判している時、読み進めるとそこでいうリベラルとは新自由主義の事であったとか、或いは逆にリベラルが保守を批判している時、読み進めるとそこでいう保守とは新自由主義の事であったとか、そういう経験も多いのではないでしょうか。
相手方の中に新自由主義を見い出して批判し合っているだけだと気付いた時、団結する事が可能な訳です。
そんな彼らは良く言えば、平等な社会と日々の安寧を求める常識人が中道に集った存在です。
ただ、悪く言えば、(道徳に頼った価値判断を許容するぶん)反知性的で、独善的で、犯罪報道を見る度にヤフコメで感情任せに「厳罰を求めます!」と書いている様な層とも言えるでしょう。
そして、より道徳的で、常識的で、平等な社会の実現こそ第一義であり、その前では自由や民主制だろうが、国体や天皇制だろうが(これを日本憲法と大日本帝国憲法に言い換えても良いですが)方便に過ぎないとまで割り切っている節すらあります。
新自由主義/加速主義側の対応
では、そういった人々が拡大すれば、日本の政治は新自由主義と共同体主義の対立に再編されていくのか、と考えてみると、私はそうは思いません。
何故なら、新自由主義の側もまた、非生産的な人々に、排除か、生産への団結かの選択を求めたがっているからです。
実際に、分権された地方同士が競争する世界観を持った政党は人気を拡大しています。
他にも、地域支配をメガコーポに任せようという様な思想も出てきています。
ピーター・ティール氏の海上国家構想はとん挫に終わりそうですが、2025年には(あくまで実証実験場という位置付けですが)トヨタが街一つを作るプロジェクトが完成しそうです。
或いは、社会主義国家やレンティア国家が、国家資本主義としての存在感を強めている事の方が、より適切な事例かも知れません。
もちろん、市民派の共同体主義が、どうしても新自由主義的な人々を巻き込み、徹底的に規制と徴税で雁字搦めにしたいと言えば、当然反発はするでしょう。
ただ「私たちは自立的に清貧な道徳を取り戻す。」と言うなら、願ったり叶ったりであり、去る者追わずで、別個の共同体として其々に成立の余地があります。
なんなら別個に成立するどころか、単に同じコミュニティの支配者と市民であっても良いでしょう。
例えば先ほどのトヨタだったり、或いは交通系財閥や、小売大手、大手商社、MATANAが開発した共同体に住みたがっても、余り不思議には感じません。
社員がエリート層として君臨する様な世界観には拒絶を示すでしょうが、社長やオーナーが唯一の支配者や、コミュニティ外の投資家、管理者として君臨している分には、意外と抵抗が無い様にも思うのです。
分散的共同体の可能性
現代国家は全体で価値観を共有するには余りに巨大であり、安定期が長過ぎました。
自らがどの様なルールの中で生きるか、より規律的なコミュニティに属するのか、それともより自由なコミュニティに属するのか、その根本から自由に選択できる社会に向かうべきなのかも知れません。
共同体間競争自体が、地域や行政などの概念に市場主義的恩恵を齎す可能性もあります。
当然、共同体による分割が行われれば、ただでさえアメリカ/中国/ユーロ圏に対して内需が弱く、そこに少子化が拍車をかけているという日本の経済的ウィークポイントを強める事になりかねません。
また、どんなに道徳的なコミュニティに属しても、隣には性産業も薬物も人やお金の出入りも自由な無秩序コミュニティが樹立されるかも知れません。
他にも、国防など、どうしても挙国一致で当たらねばならない事業の拠出等に関して大いに紛糾し、国内対立する事でしょう。
共同体構想に希望はありますが、良い事づくめではありません。
今後あるべき政治対立軸
さて、ここまでは意図的に、共同体を、国家内に複数存在する前提で書いてきました。
しかしながら、旧来型の保守層や社会/共産主義層は勿論のこと、コミュニタリアン合流組(道徳回帰派)や新自由主義者であっても、分散的な共同体に反対する人達はいるでしょう。
つまり、挙国一致、国家共同体を前提とする人々です。
先ほど言及した様に、分散的な共同体にも課題も沢山あるでしょうから、そういった人々の主張にも価値があります。
恐らく、今後の政治対立としては、この分散共同体VS国家共同体の闘いとなっていくのではないでしょうか。
いや、なっていくべきなんじゃないでしょうか。
実現すれば、リベラルVS保守、個人主義VS国家全体主義という前時代的で的外れな対立構造を引き摺ってきた事に対する、大きなターニングポイントになると思います。
後記
さて、今回はお楽しみ頂けたでしょうか。
実際のところ、「こういった議論が進めば良い」というのは本心ですが、共同体化が実現しても、所詮私はその隅や、枠外にいたがるタイプなので、過大な期待はしていません。
もしかしたら、そういう人達の寄り集まった、相互不干渉な共同体も誕生するかも知れないですけれどね!
皆さんが暮らしてみたい理想の共同体、良かったらコメントで教えてください。
では今回はこの辺で。
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