【舞台感想】『舞台 文豪とアルケミスト 旗手達の協奏』6月23日ソワレ千秋楽(配信)
2024年6月6日〜16日に東京・シアターHで、21日から23日に京都劇場でそれぞれ上演されました『舞台 文豪とアルケミスト 旗手達の協奏』(文劇7)(※シアターHはこけら落とし公演)をDMMTVでディレイ視聴しました。
このnoteはその感想になります。
※筆者は特務司書を3年ほどしていますが非常にのんびりプレイしており、ご本尊の情報も非常にフワッとしています。ところどころ近代文学にわかが香っておりますがご容赦ください。
※冒頭、また派閥名など検索避けが甘い箇所がありますが、どうしてもはっきり書きたかったんです……お目こぼしくださると助かります。フルネームは避けましたが実際になにか問題になっていればご連絡ください。
文学とはなにか。文学というものがなにをもたらし、なんのために在るのか。
現代においても問われ続けているこの問題、葛藤と向き合う作品だった。
「文学は武器だ」
「文学は自由だ」
その言葉を、多喜二という作家に語らせるこの重さよ。
文劇7は「実在する人物や団体、政治、宗教、出来事等とは一切関係ありません」の但し書きを文劇史上初めてサイトに書き入れたことで、発表当時ファンの間で話題になった。プロレタリア文学はその成立上、根底にある「思想」と完全に切り離すことが難しい。他の文学よりも文学性以外のところに注目されやすい。
そして多喜二という人間はさらにさらにその色が濃い。最も有名なプロレタリア文学作品の作者にして、その人生も凄絶な幕の閉じられ方をしている。扱いにくい題材であることは間違いない。
それを非常に巧みに落とし込んだな、描き切ったな、というのが文劇7に対してまず抱いた感想である。
プロレタリア文学は、根底に思想があれど第一義に「文学」である。この点をはっきり前提としているのが良い。
冒頭の、志賀と小林の書簡パート。あれは実際の手紙のやりとりを下敷きにしているらしい。
実際の手紙の中で志賀は小林の作品について、プロレタリア運動の意識が作品の目的として表に出ていることを「不純」と評している。その一方、トルストイの例を挙げ、思想家としての面よりも芸術家としての面を強く表に出すことで「本物のプロレタリア小説」になるとアドバイスしている。
この内容から、「文学」というものの性質についてのある種の思想が読み取れる。小説や詩など文学であるならば、その第一の性質は「文学」でなくてはならないということ。
文学として確かめることで、その中に綴じられた思想や信念も命を持って動き出す。文学が文学であることの意義、そのものだ。
文劇7はここに軸足を置いている。その一貫が非常に美しく、また非常に強く胸を打つのだ。
「文学は武器だ!」
文豪という存在が武器を手に戦う『文アル』の作品特性に合わせているとともに、文学が主体であることの高らかな宣言でもある。「武器は文学だ」ではないのだ。それはまさに、文学が思想の奴隷ではないこと――文学とはある狭い範囲の目的のみに殉ずるものではなく、むしろ文学自体に武器性があり、その下にさまざまな目的が従いうるということの宣言なのである。
プロレタリアートの味方をしうるものであると同時にブルジョワジーの味方をしうるものでもある、当然で、だからこそ誰もが持ち得て、何者にも侵害されない武器性を持つものが文学なのである。
劇中の小林は一貫して「検閲によって自らの文学の自由を奪われた」作家として描かれている。内容がなんであれ、文学は本質的に自由なのである。
「文豪」という存在を物語に落とし込むにあたっても、また現代に生きるわれわれ書き手や読み手にとっても、希望の光に見えた。
志賀は冒頭のシーンで「それによって大切な人を守ることもできる」とも言っている。冒頭の時点では「大切な人」は武者のように思えるが、このシーン終了後から本編中においては小林のことのようにも見える。文学の自由を侵害させないこと、文学の武器性を否定しないことが小林という一人の作家を守ることに繋がったはず、そういう考えとも捉えられる。
ここからは自分の思想がより濃い感想になるけれど……
表現の自由はやはり守られるべきだと思う。ごく最近にもこれに関する考えのぶつかり合いがネットでもそれ以外でも散見されて正直辟易しているが、それでもなお守られるべきだと思う。なんでもしていいということではない。ただ、理想的道徳的な文学のみが生存をよしとされ、それに外れたものは排除され、その書き手も読み手も劣ったものと判断されて然るべき、そういう世界になってはいけないということ。
もちろんこの劇は「実在する人物や団体、政治、宗教、出来事等とは一切関係ありません」。だからこの感想はあくまでも感想であって、それ以上振りかざす意思は全くありません。多喜二投獄と彼が作家であることとの相関もそれ以外の要素を考慮できるし
ただ、劇中においてプロレタリア文学と肩を並べる「志」の文学として理想的文学である白樺派が登場したことは個人的に重要だったと受け止めている。彼らもまた、思想を持ちながら「思想家より芸術家の面を表にして」戦ってきた作家であるから。「なにかにつけ生きにくい世の中」を切り開くものとして。
全体のテーマに関しての感想は終わり! ここからは細かい部分についてオタクの感想を述べるコーナーですよ。ウッヒョー!
たきじ先生(演:泰江さん)の殺陣、めちゃめちゃかっこよくないですか!? たきじ先生が動くたびに乙女心が黄色い歓声をあげてしまいますよ! いや乙女心もそうなんですけどカッコいいものを見た五歳児の心も一緒にガッツポーズしてた。
華麗すぎる。今回の文劇メンバーの刀武器が全体的に一般的な刀の形をしているから、プロレタリア派の特殊形状の武器が目立つんだ。Aが0より大きくて判別式Dが0の三次関数のグラフみたいな物騒で派手で超かっこいい刃物がついたあの武器を、舞台の上で大胆に緩急つけて振り回すあの感じ超よすぎる。あの武器すごいわ。ストーリーを追いながら見ているとあの武器形状はプロレタリア文学の信念の強さ苛烈さを表しているものだと自然に理解できるもん。いや実際そうかはわからないけど(でも白樺派は逆に正統派だからそういうことなんだと思っている)。
冒頭5分で泣ける。冒頭5分でいいからどうにかして人々に見せたい。それだけこの冒頭のシーンにいろいろなものが詰まっている。憧れのしが先生にお手紙できて嬉しいところから、苦しさと悔しさとやるせなさの混じった声にだんだん変わっていくあの感じ。演劇のいっちばんいい要素を最初の5分で摂取しちゃって本当にいいんすか!(えっ今日はカレー食べていいのか!)
しが先生(演:谷さん)の叫びもすごい。いや本当にあの魂の叫びを聞いてからほどなくして詩人歌人ペアの潜書シーンに入るから「……はっ! これはここからあと2時間ほど続く舞台の冒頭シーンだったのか」とびっくりする。ここ何回か巻き戻して観ているけれど毎度そうなる。それだけ観ている側を引き込む演技でヤバい。
ここ観て円盤購入を決めました。ああ、文学ってすばらしいよ……!
その詩人歌人ペアも最高ってワケ。文劇7に隙はないからね。
たかむら先生(演:松井さん)のマスケット銃、撃ち方がいちいち美しすぎるというか勝てそうにないというか、すっごい。たかむら先生にはゲームでだいぶお世話になったけどゲームは立ち絵だけだから実際に撃つ姿は今回初めて目の当たりにした。のにすごくしっくりくる。構えて撃つのはもちろん、銃身で近接、果ては銃身をひっくり返してのバックショット! あんなんしたら火薬おかしなりますよという理性を美でねじ伏せる! いやあのバックショット本当に良かった。さすが光雲の子(?)
ライティングの色がたかむら先生のときは必ず黄色なのが愛を感じた。ああ、レモン色なんだなあって。そしたら突然のちえ子にわたしは漫☆画太郎フェイスになるほかなく……。ボーナスちえ子と名付ける。そうなんですよ、たかむら先生とちえ子さんは切っても切れない強い仲なんですよ、ちょうど先日日本文学の教授のところでちょっとばかしお話聞いてきたところなんですよ。ねえ。
文学者なら(そして男性なら)実装できる、つまり転生してまた会えるというのにたかむら先生とちえ子さんは会えないとはいったいどういう星のめぐりなのでしょう! ちえ子さん実装しましょうよお! だめです。だめですか……。でも文劇において一瞬でもこの二人の間柄を確認することができて本当に幸せ。ありがとう。
高校時代友人に「文芸部なのに『レモン哀歌』も知らないとはなにごと? 当然読んでおくべきですわよねえ!」とどやされたのを今になって思い出す。センキューレコメンド。彼女のおかげで今があります。
そこに緩急つける形のたくぼく先生(演:櫻井さん)のハンドガンがまた良くて。カテコでもおっしゃってたけど本当に喉お疲れさまでした……! あのガラガラっとした声にどんどん安心感がプラスされていきましてねホンマに。「金ならないぞー!」「石川くん?」のところで今作品最初の笑いどころが来てわたしも「石川先生?」って声出た。「お馬さん、負けちゃったよ……(23日は京都競馬場で宝塚記念)」もだいぶ不意打ち。
そうやってコメディポイントを貯めつつ、生来の病弱さが見え隠れしたり後半の潜書で瀕死になりながらも起死回生の一手を繰り出したりするところが本当に心に来て、かっこよかったんだ……! 一瞬絶筆も覚悟した、だからこそあの瞬間動いてくれて本当にハッとなった。
「戦えど戦えど、この戦い、楽にならざり――ぢっと手を見る。」戦闘シーンの途中に突然詠むからびっくりするんだけどその時間が妙に澄んでいて、大好きなシーン。「ぢっと手を見る」のたくぼく先生の詩人のオーラ、あれがすごい。ここにも文学性とか演劇性とかが詰まってて好き。
「秘技!」言いはじめたとき「あっ、借金キック!?」と思ったら「一握の砂!」だった。借金キックじゃないんかい! なんだその文アニ1話の蜘蛛の糸みたいな使い方は!
(※追記 「借金キック」ではなく「借金苦」だそうです。???)
そしてその後のひろつ先生(演:新さん)と2人で白樺派を讃える口上。あれかっこよすぎるって。「侵蝕者の皆々様、白樺派には、用心用心、火の用心だ!」火の用心。シアターHのこけら落とし公演だから劇場の無事を祈ってのセリフでもあるんじゃない?というご考察を目にしましてウオオー(心大盛り上がり)。それをともかくとしても、白樺派の強き理想の快進撃を「火」に例えて敵に「用心」を促すこの構成、個人的にとっても胸躍るのですな! これから積極的に使っていこうかな! 用心用心、火の用心だい!
個人的にはたくぼく先生が「さあさあお立ち合い、耳だけでも傾けて聞いて御覧じろ」と歌舞伎役者か外郎売かというくらいすらすらどんどんと始め、それを「~としても名を轟かせる活躍っぷり」と冷静に聴きやすくしかし内に強さを秘めた語り口でひろつ先生が継いでいくところ大好き。あとなんか登場がパリコレっぽいの好き。
ひろつ先生、ゲームでは高レアリティがまだ来てなくて会派にも組んだことがなかったのにここにきてすっごくかっこいいことに気がついてしまってわたしは……??? 新さんお美しい、オーソドックスながらぶれない華麗さのある殺陣の動き、動くたびにひらひらする羽織! 忘れ物の多いおっとりしたところも。メモを落としてきちゃったシーンで「袖にあったんですね!」からの羽織の袖にしまって1秒で落とすやつ永久保存版で観たいよ。むしゃさんの優しい声での「落ちたねえ」も相まって大好きシーン。
むしゃさん(演:杉江さん)と組んで潜書してたところ、あの演出はもしかしてもしかしなくても双筆真髄?
双筆真髄だ! よく考えたら劇中でみなさんしばしばペア行動していたのはそういうことなのかも。じゃあ気づいてないだけで他のペアにも該当のシーンがあったということ? ウオオーッ既に配信視聴期間が過ぎていることが悔やまれる〜! 確認させてくださ〜い!
その後キャッキャしてたら袖で落とし穴に落ちるまでがセット(昭和のギャグシーンみたいでたいへんかわいらしかった)
ありしま兄弟の話をしていいですか? やった。
恥ずかしながら先日初めてありしま先生の著作を読ませていただきまして(『小さき者へ』)、「なんでこんなに素晴らしい作品を書く人をこれまで読まんでおられたか」と非常にこれまでの人生を悔やむとともに大感激したのです。文章がうまい。トリッキーなうまさではなく、ひたむきに書かれたおもしろさ、それでいて非凡な力によるものであることは確かで。
トン先生の『善心悪心』もこの日のために読みましてね。図書館で借りられたのが旧仮名のものだったのでうまく読めませんでしたが、ゲームで見ていたトン先生とはまた違ったアスペクトが読み取れて。コンテクストによるものも多少あるのは否めないのですが、それでも「ああ」と心に来るものがあったのです。
ちなみに『小さき者へ』を読んだのは文劇7の登場キャラクターが公開される前だったので直後に白樺派4人の出演を知りヒュッとなったのです ヒュッ(死)
そんな兄弟についてやはり邪なコンテクストを持参して観ていたわけなんですがワア~〜~〜〜~
「お兄ちゃん」という言葉を使える、かけられるありしま先生(演:杉咲さん)って。「無茶くらいさせてよ」と言えるトン先生(演:澤邊さん)って。弟のために怒れる姿。なんというかその、劇中でも「生前」というセリフが多く出てくる中で、二度目の生として兄弟をしている2人を見られたということが非常に重くて非常に抱きしめたくなるような感慨があって
この2人は自らのことを凡なる人間だと認識しているのが胸に刺さる。白樺派として志賀と武者という二枚看板の隣に立つことで、白樺派というまとまりに所属しながらもどこかで彼らのことを自分たちとは違う人間だと思ってしまう。それぞれのコンテクスト、つまりありしま先生はその最期であるとか、トン先生はしが先生との関係であるとか、そういうものから邪推して観ているこっち側は勝手に苦しくなっていく。そしてそれは錬金術によって彼ら「文豪」にフィードバックされてしまうんだな。やめろ! わたしなんかのおこがましい情欲を座に記録するな。
「無茶でもしないと追いつけない」
そのかすれるような苦しみが舞台の上から自分ごとのように響いてきてぞっとした。絢爛に輝く人に憧れて、近づくと今度はどうしても超えられそうにない妬ましいくらいの才能であることに気づいて、憎いのは当たり前で、自分が惨めで情けなくてたまらない、どうにかしてあの人に追いつきたい、追いつけなくてもせめて追いつくための努力をし尽くさなければ、身を焦がすように生きなければ足りない、足りない、死ななければ生きられない!
史実がどうだったか無知すぎて存じ上げないのが恥ずかしいけれど、そういう思いは常々聞くもので、わたし自身(おこがましくも)経験がある。
というか今、まさに自分の実力不足を痛感している。ずっと書いてきて、でもまだなににも満足できていない。最近は自分の物語を書けていないので特にそう思ってしまう。借りてきたものが多すぎる。わたしの文学はどこにあるのか、そんなものないかもしれない。読み返しても恥ずかしくて読破できない。語義がずれている。理論が噛み合ってない。主張が幼い。テンポが悪い。雰囲気が途中で崩れる。どうでもいい描写が長い。尻切れトンボ。同じ展開が二度ある。成長がない。書けない。書けない奴は生きている価値がないから逝ってヨシ。
でも死んだらなんにも書けないじゃないか。
それだけが後ろ髪を引く。頑張るしかない。努力しなくちゃ、無茶でもしなくちゃ、だめなんだ。
白樺派は理想を書く。それが単なる「理想」に過ぎないことなんか本人がいちばんよくわかってる。靄がかりの今日にそれでも理想を真実にするために立ち向かう。自分を貫く。それがどれだけ苦しいことか。そしてその強さはどれだけまぶしく、また人ならざるものじみて見えるのか。
今作を観るにあたって相当感じた。しがむしゃの苦しみ、ありしま兄弟の苦しみ、たきじの苦しみ、エトセトラ。
何度でも書く。これらの苦しみがパラレルに描かれているのがすごい。そこが良い。
(※追記 『君と私』を読みました。史実からしてすごかった。)
しが先生とむしゃさんの関係についてはゲームでの関係セリフの多さでもちらほら聞こえてくる史実エピソードでもわかるけれど、単純にべったりくっついた友情という感じではなくて、強い信頼から成っているのがわかる描写がたくさんあってよかった。いやもちろん(特に劇むしゃさんは)べったりのときもあって、その上で手を離しても大丈夫、というか。背を預けあえる仲であり、また一人の人間としての強さを保証しているというか。
いやあね。弊図書館に最初に来てくださった星3がむしゃさんだったので個人的に付き合いが長くはあるんですが、当時はそのセリフの言葉の強さにびっくりしちゃいましてね。「理想のために」「世界を平和に」なんて素面でなかなか言えないよ。でも詩集を読ませてもらって、そこになんの背伸びもないことが分かった。そしてそこには常に笑顔があった。文アルのむしゃ先生のイメージがほぼそのまま流れ込んできて、(順序が逆転していることは前提として)うわやっぱすごいんだと思った。
先日劇2の放送をちょっとだけ見たので杉江さんのむしゃさんのきゃぴきゃぴ元気がまた見られて嬉しい~! と思うとともにこのお元気はただのきゃぴきゃぴではないというのも理解できて、光を振りまくのをやめるいくつかのシーンでそれが垣間見えて好き。落ち着いても光は失われない。心は折れない。
詩集の中の好きな一節、「俺はこの幸福を誰に感謝しようかな」――これを言った人だと考えて説得力がある。最高でした。
しが先生、本当に良かった。すべてが詰まっていた。苦しみや悲しみ、やるせなさなど、むしゃさんが見せない部分の感情を見せてくれつつやはり心が折れないところ。
これはリベンジの話だ。史実じゃできないイフストーリー。だからこそ生前をどう変奏させるかがポイントで、それだけで心が抉られてたまらないんじゃ。たきじを助ける、文学を救う、繰り返さない、その思いの強さと人間味が存分に感じられてある種の凄みさえあった。
苦しみも強さもあって、さらに仲間内における弱さとかのコメディ部分もある。なんだこの人
白樺コメディパートずっと面白かった。この牧歌的で面白い人たちはなんなんですか? とてもつよい人たちです。
元気なむしゃとん、追従とツッコミのしが、一瞬ツッコミしてくれるのにノリに完全に支配されるありしまの4人。ありしま先生ノリよすぎか。デデン! 斬られそうになって非常に立場が弱くなっているしが先生何度見ても笑いをこらえきれない。とにかく笑いをぶっこんでくるむしゃさん、むしゃさん来ないなと思っていたらぶっこんでくるトン先生、ラジオ体操。村祭りみたいになっちゃった
そしてたきじ先生の苦しみ……(緩急)
助けに来たしが先生を拒絶するシーン、その健気さ優しさ染み付いた自己犠牲精神が痛いほど伝わってきて本当に苦しかったです。嬉しいんだよ。嬉しくはあるんだよ。でもそれ以上に、もう自分のために苦しむ人を生みたくない。たきじという作家の死が、弾圧が、当時の文壇と運動家の間にもたらした全てを、もう二度と繰り返したくない。運動が息を潜めることになっても、命を奪われることだけは許せない。ましてやそれが憧れのしが先生ともなれば。
自分一人の命で済むのならそれでもう本望だ。そう思ってしまうほど、追い詰められていたのが苦しい。
でもそれを積極的に是としたいなんて微塵も思っていない。文学が奪われるシーン、あの必死さからはそんなこと微塵も感じられない。だからこそしが先生は、あのときの雪辱を果たすため、今度こそたきじ先生を救おうとする。
途中「運動をやめても自分は一向に構わないから、生きているだけでいいから」みたいなセリフあったのきっとしげじ先生宛てですよね……うう……切ない……やさしい……
文劇7、たきじ先生が大好きになっちゃう作品だった……なるほどこれが「メロい」っていう感情……?(たぶん違う)
いや本当に。ゲームではぼちぼち、御本尊の作品もぼちぼち程度だったのに、ここに来て突然刺さって困っちゃってるんですケド。泰江さんの演技、良かったな〜〜〜。かっこよかったよ全く〜〜〜。泰江さん殺陣うますぎだろ〜〜〜。健やかなるときから病めるときまでオールグラデーションを演じきっていただいたおかげでたきじ先生の持つ信念と健気さにアクセスすることができて、今本当に感動しています。真面目なんだなあ、というか。おお健やかなれ文アルたきじ先生。ナポリタン二億皿お食べ。え、労働しないとダメだって……? そうだよね……。
【追記】言及したいシーンをあとに取っておいたら言及し忘れるというポカをやらかしてしまった!
「もう負の感情を餌にするのはよしてよ。それも大事な感情なんだ」
これ!!! 負の感情を源に生きる侵蝕者たちに対してのセリフ。現在進行系で侵蝕されているトン先生が言うのがまた。
『善心悪心』はタイトル通り自らの「悪心」にも目を向ける作品であり、それが作中だけでなく実際のトン先生自身にも返ってくるメタ的な部分もある作品。劇中でも言及されているし、だからこそ偽トン・偽しがが登場することになる。
少なからず負の感情によって書かれたこの作品を、それでも誇っていいと言うような、そんな感じがする。思い出すたび苦しい。当然そのはずだけれども、それでもその暗部を理由に闇に捨てるなんて、と思うのも確かだ、というか……。後ろめたい感情や不道徳な、目を逸らしたくなる黒い塊を、見るに堪えないからってだけで「塗りつぶす」なんてよしてよ。そういうセリフだったんじゃないかなあと個人的に思います。
ほんに全てが最高の作品でした。カンパニーの皆様、ならびに脚本、演出、その他スタッフ・関係者の皆々様、まことにありがとうございました。そしてお疲れさまでした!
文劇8制作決定おめでとうございます! 非常に非常に楽しみに、夏の着物にして待っております。どうか皆様ご無理なさらず、体調等崩されませんように。
あー文劇でフランス詩人が見たいなあー!!!!!!!!!! 見たいなあーーーーーー!!!!!!!!!!!! チラチラ!!!!!!!
よろしければご検討ください!!!!!!!!!!!!