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中国語のロジック

 中国上海に来てほぼ1年が経過した。ここでの生活には慣れて驚きはもうないが、自分自身がどのような環世界に生きてきたかが日々浮き彫りになる

 中国語の学習は予想通り習熟の壁で大きく躓いている。気乗りがしないままに語学学校には通っている。語学学校の先生は毎回変わるのだが、みんな個性があってクセが強いこともあって戸惑うことも多い。ただ、彼女たちから学ぶことや気付かせられることも少なくない。

 レッスンの度に毎回中文作文を作成してそれを添削してもらうのだが、先週も先生からはいつものように厳しい指導を受けた。

(中文作文テーマ:週末には何をしますか?)
 若い頃の週末はいつも夜更かしだった。でも今では週末は早く寝て、早く起きる。早く起きてまずは午前中に洗濯をして部屋の掃除をする。そしてコーヒーを飲みながら残った仕事を片付けたりする。
 午後は読書をしたり、ネットをしたりしてリラックスした時間を過ごす。
そして夕方には公園に行ってランニングをして帰ってシャワーを浴びる。
夜には中国語の勉強をして、早めに就寝に就く。
過去から規則正しい生活を推奨され続けていた理由を身を持って感じている。

 今、改めて中文を日本語に逆翻訳するとあまりに稚拙な内容であるため、少し気恥ずかしさを覚えるが、語学勉強としての作文であるためご容赦いただきたい。

 当然今回も細かい中国語表現の訂正はされた。そして最後にこの文章はロジックとして不適切だと指摘を受けた

・・・・・・夜には中国語の勉強をして、早めに就寝に就く。
(今では私の生活は規則正しくなることで健康的になり、身体の調子も良くなってきた。)過去から規則正しい生活を推奨され続けていた理由を身を持って感じている。

(  )は先生が追記/編集してくれたものではあるが、(  )の内容がなければ文章として飛躍していてNGだという。

 これを飛躍と見做すのか、冗長と見做すのかは国民性や文化であり、言語の性質だと主張するほど知見も経験もないが、私にとっては冗長以外の何物でもない、指摘されている理由はわかる。ただ、その一文を入れなくても(  )の内容は前の文章で包含されていると思うし、文章にはある程度の飛躍がないとクドくなってドライブ感も出てこない。

 中国語の学習に過ぎないのであまり突き詰めるところではないが、言葉や思考の面白いところなのでもう少し掘り下げてみる。

 言葉とは思考のツールではあるが、思考は言葉だけではない。思考として、つまり考えるプロセスとして映像があったり、音があったり、数式があったり、言葉以外の手段もあったりする。言葉は思考の一様式に過ぎないが、言葉で不完全ながらも言葉の意味以外の要素やイメージを付加/付与することができるかがそのテキストの豊さを担保する

 先の作文に戻るが、内容としては早く起床して午前中からやるべき事をタイトにこなしながら、生活にリズムがあって充実感を表現したつもりだ。そしてそのイメージした映像を脳裏浮かべながら自分は先人達の言い伝えをしみじみと感じているという趣旨であった。ここにリズム感ある生活の事実列挙に加えて、自分の身体の状態について言及する必要があるのだろうか。否、言いたかった事は身体の健康的なことよりも休日の充実した時間の流れを表現したかったわけで、それをわざわざもう一度書き出す必要もないと私は思う。

 中文作文は毎週の宿題であって、実はいずれの中国人の先生からはしばしば同様の指摘を受ける。このロジックの飛躍は日本語の特性なのか、自分自身の性向なのか、またその両方なのかはわからないが、今一度自覚すべきだ。中国語若しくは中国人にとってロジックを丁寧に積み上げていくことのほうがしっくりくるということ。(ChatGPTにも問い合わせたが、一般論としては中国語の方がロジックが厳密になる傾向とのこと)

 日本語と中国語の違いというより、個人の特性として、思考の癖や好みに”飛躍の許容度”を一つのキーワードとして捉えたい。この飛躍の許容度は気が合うとか、相性とか、話が通じるとか、対人関係のコアなところに近い印象。趣味や嗜好が全く違っても共感できる人がいたりするが、この思考の癖やスタイルが似ているとそれだけで共鳴するのだろう。

 飛躍の許容度が高いと大胆な発想に繋がったり大局観を掴みやすくなるが、高過ぎると思考として粗く、深さも幅も出ない。そして合理的な結論も具体的な実行計画にも落とし込むことが難しくなる。逆にこの許容度を少し厳しめに設定すると、精緻な考察と抜け漏れのない議論が可能となる。低く設定し過ぎると冗長的になるばかりか、視野狭窄となって本質を見誤ることになるだろう。ポイントはこの許容度の高低というより、柔軟に変化させること。また同時に許容度の異なるフィルターを同時に用いながら思考をしたり、対話したりすることが必要だ。

 幼少期から青年期を経て、大人となり中年になることで趣味嗜好が変わりながら、思考の仕方も変化している。上記のロジックの飛躍に個性やクセが生じていくる。趣味嗜好は当然変化するが、ロジックの飛躍についても自分自身変化しているように感じる。基本的には年齢を重ねると慎重になって飛躍が小さくなる傾向。いい感じに老練すれば話に深みが出るが、失敗すれば話の長いつまらない人物に陥るという残念な結果が待っている。(最悪なのは同じ話を何度もしてしまうという中年や老人達の嗜癖に陥らないように緊張感を持って歳を重ねたい。)過去を振り返ると幼少期はロジックの飛躍や逸脱を言葉遊びとして、そのスピード感を会話で楽しんでいたり、混沌を笑い飛ばしていたりしていたことを思い出す。
 選んだ職種によってもここは大きく変化する。大胆な企画や構想づくりを担当する業務と精度や緻密性を要求される業務とを従事する人ではその思考の癖は真逆になるだろう。これはほぼ職業病のようなものとも言える。だからこの大きな話と小さな話をバランス良くできる人物は本当に少ない。自分自身もどちらかにいつも偏っていてその調整に苦労している。

 ロジックの飛躍を大胆にし過ぎた未検証の一般論や主語が大きな言説は”炎上”の原因や暴論の要因となりがちではある。しかしながら飛躍したロジックは広く大きく速やかに全体像を捉えることに有益だったり、仮説を提唱することに有効だったりする。それを精査することなく表現したり、前提を示すことなく表明することが良くないだけ。陰謀論に絡め取られるのもその副作用の一つで、世の中の複雑さに耐えられずに全体像を捉えることを優先し過ぎて機能不全を起こしている状態(結果的に実態を捉え損ねた結末はエンタメや洒落の一つとして認知されている!?)と言えよう。また他者を傷つけたり、誰かの尊厳を損なうことは厳禁ではあるが、そこまでのリスクも念頭に置きながらも大胆な仮説を立てたり、主張したりすることはできるはず。考える幅が限定的で無自覚に他者を毀損することのほうがリスクが高いかもしれない。

 ここまでを纏める。中国語の先生から作文でロジックの飛躍を指摘された事例を元に、それを一般化して思考の癖に話を展開した。その癖は個性として年齢や職業によって大きく影響を受けて変化していく。それを自覚して時代や相手、場所にアジャストしていく必要がある。同時にロジックの飛躍についてのメリットと副作用についても考察した

ん?、私は一体何が言いたいのだろう。

 中国語の先生から作文を添削されて不本意だったのだ。けれども立場としてそれを主張するチャンスもなく、それが受け入れられる必要も必然もない中で、ここで独り言のように反論しつつ、納得しようとしていただけだ。

この独り言に付き合ってくれた皆さん、大変失礼しました。

イラスト引用:https://chojugiga.com/









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