「本物の教養」って何だろうね
最近「本物の教養」みたいな言葉をよく聞く気がする。
(まあ、私の気のせいかもしれないけど)
この「本物の教養」という言葉なのだが、個人的には奇妙な言い回しに思える。
「教養」の部分を「メガネ」とでも言い換えると、みなさんにもこの違和感が伝わるんじゃなかろうか。
本物のメガネ。
「はぁ。メガネはメガネだろ。本物もへったくれもないわ」
──これは、私が「教養」に対して感じていることでもある。
教養って「本物かどうか」で測るもんじゃなくない?
まあ、メガネにも質の良し悪しはあるかもしれない。
だが、質が悪くてもメガネはメガネだ。
そこにあるのは、相対的な「良し悪し」であって「本物か偽物か」の二者択一ではない。
これは教養も同じである……というより、私は「教養とはある種のメガネ」なのだと思っている。
人生の特定の局面において、世界の解像度を上げてくれる視力矯正器具。
何かしら身につけているに越したことはないが、身につけていない人間や変わったデザインのそれを身に着けた人間をあざ笑う権利はない、そういう類のモノ。
ちょっと良い視力矯正器具をつけているからといって、偉そうに振る舞って良いわけではない。
というか、偉そうに振る舞う意味が分からない。
メガネの度が強いからといって自慢する人間は存在しないだろう。
重要なのは、自分に合った度で、好みのデザインのメガネをかけることだ。
そして、自分に適した度やデザインは人によって違う。
いちいち他人と比べて良いとか悪いとか、優れているとか劣っているとか気にするような話ではないのである。
たとえメガネの度が小さかったとしても、廉価な製品だったとしても、その人に合っているのであれば、何の問題もない。
まあ、要するに「教養を身につける行為」は、優劣をつける性質を持ち合わせていないということだ。
それに、ハイカルチャーだけが教養というわけではない。
サブカルチャーもマスカルチャーもポピュラーカルチャーも、立派に教養の一種である。
ハイカルチャーのメガネをかけているからといって、かけていない他者を「無知で無教養な人間だ」とあざ笑うべきではないのだ。初音ミクだって教養である。
で、結局何が言いたいのかというと、
「『本物の教養』という概念はナンセンスである」
「そもそも教養は『これさえ身につけていれば安心!』という類のモノではない」
「ハイカルチャー的なものに強い関心があるわけでもないのに、インスタントに『本物の教養』を得ようとする行為には、そこまで意味がない」
「細かいことは気にせず、好きなモノを浴びまくれば良い」
「そして、他人の教養の身につけ方にケチをつけるべきではない」
……といったことである。
教養に限った話ではないけれど、みんな好きにすればいいじゃん。
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