モヤモヤする
「『悪いことはするな』とあれだけ教えて育ててきたつもりなのに、何をやっているんだという思いだ。」
⬆昨日のnoteに書いた「不祥事をしてしまった人」の父親のコメント。これを読んだら何かが自分の心に引っかかり、モヤモヤが止まらなくなった。
例えば、
盗んだバイクで走り出す。
校舎の窓ガラスを割る。(①とする)
これは悪いこと?倫理的には悪いこと。
でも、「悪いこと」という抽象的なワードは、人によって解釈が変わる。そもそも悪いことってどこまでを言うのか?ケースバイケースではないのか?さらに、事象の背景をたどれば、「悪いこと」も「仕方ないこと」にならないか?
「お前は良い大学を卒業して、私のような公務員になるんだ!そして私より上の役職まで行くんだ!」
「公務員になれさえすれば、一生安泰なんだぞ!」
「なんだこの成績は!93点なんて恥だ!100点以外私は認めない」「私はそんな子供に育てきた覚えはないぞ!」
①をやらかした子供が、そんな親の環境にいたら、窓ガラスを割りたくならないか?何らかの「心の噴火」をしたくならないか?もちろん悪いことだが、背景を踏まえたら、ものごとを見る角度を変えたら、「仕方ない」という解釈もできるのではないか?
この環境でガラスを割らないで生きていられる方が、感情を失っていて逆に心配なくらいだ。
生きていれば、どうしても「心の噴火」は起きてしまう。
誉めて欲しい
与えて欲しい
認めて欲しい (これらを②とする)
こんな感情は、誰にでもあるのではないか?
でも、それが満たされない時、手っ取り早いのが自分で自分を満たすこと。
ひとり旅だったり、友達との会話だったり、映画、パチンコ、タバコ、風俗、自慰行為など
上記の子供の例えは、たまたまその選択肢が①だっただけ。
もし、親が②を満たしてあげていたら?
「心の噴火」は小規模で収まっていたかもしれない。そしたら心に余裕ができて、子供は親の教育方針の意図を汲もうとしたかもしれない。
それでも子供が納得出来なければ、親に自分の意見を伝えたかもしれない。「自分は公務員になりたくない」「○○になりたい」「なぜなら…」と。
親と子に限らず、人と人との関係は「上下ではなく前後」だと自分はいつも考えている。先に生まれた人が前を歩いているだけ。その差は絶対埋まらないが、同じ道を歩いていても、歩く人によって見るものや感じるものが全然違う。むしろ同じことはない。だから人は面白い。
今回は親子の話だが、人が人として人を見る時、そこには感情が生まれる。ムカついたり、心が温かくなったり、尊敬したり、涙したり。そんな関係を今、築けていないから「心の噴火」が大規模になるのではないか?
そんな人たちが組織の多数派になった時
不祥事が起きたら
「とりあえずコンプライアンス研修やっとけ!」
「違反したら罰則があることを紙に書いて全員に配っとけ!」
そんな血の通わない、間に合わせの模範解答で再発が防止できると本気で思ってしまうのではないか?
「住民の信頼回復に努める!」と会見で言う度に、「再発」のフラグが立っていることにまだ気づかないのか?
犯罪は悪いこと。みんなわかってる。
でも、そこには必ず原因があって、悪いとわかっていてもやってしまう仕組みがある。そこを掴みに行かないと再発する。
組織の数千人にそれをやれと言うのは無理な話かもしれない。ゼロに何を掛けてもゼロだ。
でも、「再発防止を『徹底』する!」と言い切るのなら、そのくらいの覚悟で臨まない限り、終わりは見えない。
ひとりができることには限界がある。
だからこそ、目の前の仲間や、となりの席の人の発言、しぐさ、表情の変化などに気づいてあげることこそが再発防止の始まりなのではないか?
「部局が違う」だとか「うちの課だ」「そっちの課だ」とか、小さいことにしか目がいかず、仲間同士でくだらない争いをしている暇があったら、目の前の仲間に「おはよう」のひとことでも言ってみてはどうか?その「おはよう」はいつぶりの「おはよう」なのか知らないけど。
自分は、この不祥事をしてしまった人と一緒に、面と向かってとことん話したい。何があったのか?どんな思いだったのか?何を満たして欲しかったのか?
そして、一緒に謝りに行こう。被害者のところへ。
一緒に自分の素直な想いを伝えに行こう。親のところへ。
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