実家、のようなもの。
今日、存在そのものが青豆ハウスのような、誰からも愛された住人家族がフワリと青豆ハウスを卒業しました。
青豆ハウスをつくるとき100年続く賃貸住宅をつくりたいと思いました。その頃、僕はもちろん生きてないだろうし、物としても遺ってないかもしれないんだけど、心に遺り続ける住宅であれたら。
一緒に暮らしはじめた住人は賃貸住宅だし、いずれ卒業していくんだろうけど、終の住処になってもよいと感じてくれる、そんな家にしたいなと。「あの人とあの人が暮らした家なんだよ」と住み継ぎ、語り継がれる住宅になれたらよいなと思っています。
今から6年とちょっと前そんな青豆ハウスが竣工し、入居者募集も残り2世帯というタイミングで、「lens」という名前に惹かれて見学しにきてくれた彼らに、"暮らしぶり妄想"の実況中継をしたのは、会った瞬間に絶対に暮らしてほしいと感じたから。
彼らと暮らしたらきっともっと楽しくなる。そんな直感を与えてくれる2人でした。
一緒に暮らしてから、楽しいこと、幸せなこと、いっぱいいっぱいありました。辛いことも分かち合って一緒にたくさん乗り越えました。
仕事もいっぱいしました。
彼らの友達ともたくさん仕事しました。
出会いで縁が広がるということを文字通り感じさせてくれた夫婦でした。
未熟児で生まれてきた双子の姉妹hana-utaは今ではすっかりおしゃべりさんになって、「ちっぱさん!ちっぱさん!じゅんじゅん!」とうちの夫婦にすっかり懐いてくれて。どんなに疲れて帰ってきてもいつも幸せを与えてくれた膝の上の温もりが今では恋しい毎日です。
彼らが制作場所として使っていた「uzura」はコロナ禍の状況だったので友人限定でこっそりお知らせをしたところ、素敵な家族に住み継いでもらうことができました。これはとても楽しみなこと。
青豆ハウスの話を講演などでお話しすると、「住んでいる方の年齢はどのくらいですか?高齢者はいないのですか?」と多様性的ななにかを求められます。正しさやそうあって欲しいという理想を押し付けられると、ごめんなさいと思うのですが、心の中でみんなで高齢者になって老人ホームになっていくからなといつもほくそ笑んでいました。
ずっと暮らし続けると思ってたから卒業するなんてことはまったく想像してなくて、はじめて切り出されたときは全力で止めました。
でも、今回は止めませんでした。
止められない事情というより止めたくない事情だったので。
はじめて退去を切り出されて、たくさん泣きました。一緒に泣きました。
くにーが泣いたの、たくさん見たけど、一番辛い涙だったな。
ふたりにたくさんの夢をみせてもらった、青豆ハウスの長男である息子は、ようやく背で追い抜くくらい大きく育ったので、みんなの前では強がってたけど、本当に嫌だったみたい。
ふたりにレンズ向けられると最高の笑顔するんだよね。
彼が小さい頃から毎年誕生日に贈っていたお手紙をずっと玄関ドアに貼って毎日見てくれていたこと、嬉しかったと思うよ。
そうそう、「青豆ハウスの未来の住人に対してどんなメッセージを伝えたい?」と聞いた時、ふたりは動揺して、くにーは泣いたね。
「やだ!それって自分がいないってことだよね?そんなのいやだ!」って。
あのとき、本当に嬉しかったな。
こんなに辛い退去はないから、その辛さを和らげたくって、ある決断をしました。
「lens」に新たな住人は募集しません。
青豆ハウスのlensは今は彼ら以外思い浮かばないから。
れんずファミリーがいつ帰ってきても良いように。
これから青豆ハウスはもうひとつの実家になります。
子供たちが育ってきた住人たちのもうひとつの部屋として、いつも住人たちで温めて風通ししておこうと思います。
コロナ禍の今、もうひとつの部屋をシェアできるって大切だしね。
一見おかしなことかもしれないけど、その方がきっと幸せな未来な気がするので、僕にとっては正しい選択。
これからも実家のようなもの、たくさんつくっていこう。
あらためてありがとう。
けんけん、くにー、はな、うた。
みんなからの手づくりの贈り物。喜んでもらえたかな。
ちょっとばかり離れるけど
いつでもなんどでも帰ってきてよいからね。
また虹もお見送りしてくれるから。
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