見出し画像

【小説】忘れない

 先週の誕生日にプレゼントされたネクタイを締めた時、自分達の結婚式を思い出した。

 白いネクタイをキュッと締めると、自分の、なんだか大人としての人生がこれから始まっていくと同時に身も引き締きしまった気がした。

 ドアをノックする音で振り向くと、天からの贈り物だと思える彼女が、純白のドレスに身を包んで立っていた。慣れないハイヒールで一歩ずつ私に向かってくる夕子を、これから先もこんな気持ちで見つめるのだろうと胸が熱くなる。心配そうに上目遣いで見つめる彼女が愛おしくて、「綺麗だよ」と両手を握った。

 姿見の中で手を取り合い、命尽きるまで人生を共にしようとする自分達は、この世界の幸せの全てだった。

「私、今日のこと一生忘れない」

そう言う夕子を抱きしめようとすると、スタッフに「崩れちゃいますから」と止められて、皆で笑った。

 彼女の名前から、夕方からの式も考えたが、見学した時にこの青空の中がいい、といった彼女の一声で決まった。

 秋の終わりを誰にも告げず、いつの間にか冬になった空が、どこまでも広がっていた。


 チャイムの音で、自分の眼差しが鏡に写った自分に戻る。記憶の中の自分にはない、シミやシワが刻まれた顔。昨日行った理髪店で整えてもらった形のいい眉をまじまじと見る。自分ではとても出来ない。

 約束の時間より3分早い。

 慌てて櫛で髪を整え、白髪混じりの鼻毛も出ていないか確認をして洋服箪笥を閉めた。

 玄関を開けると、ショートカットによく似合う、パールのピアスが揺れていた。

「髪、どうかな」

 心配そうに上目遣いで見つめる。カシミアの紺のコートが彼女の肌の白さを際立たせている。

「驚いた。けどとても似合ってるよ」

 彼女の手で開けられたドアが、満足げに

外の空気を吸い込んで閉まった。

「今、お茶を淹れるから座って」

 やかんに火をかけておこうと思ったのに、身支度に時間をかけてしまったせいで彼女を待たせることになってしまう。

「美容院から直接来たの?」

 シャンプーの匂いに反応して聞いてみた。

「そう。一番良い状態であなたに会いたかったから」

と今度は座りながらはにかんだ。

テーブルの上にある孫用のお菓子を取る手には、浮き出た血管と年相応の感じはあるけれども、それでも情けない老いを感じさせない上品な女らしさがある。

 落ち着いた色にネイルされた爪の甘皮まで手入れが行き届いている。女一人で出版社を切り盛りするには、細部まで気を配る必要があるのだろう。

 少女の様に表情がコロコロ変わる彼女はとても六十を超えているようには見えない。

「さて、じゃあこの間の続きから」

と、パンフレットを開いた。パンフレットを覗き込む  彼女のまつ毛に丁寧に塗られたマスカラが、彼女の可憐さを引き立たせている。美容院の香りと相まって、彼女がつける香水の匂いに鼻の奥を刺激される。

 ちょうど一年前まで、カップ麺やスーパーで買ってきた寿司のパックの魚臭さで充満していた部屋とは思えない。

 床に落ちていたゴミは、彼女が来る日にまとめられ、あとは指定日に出せば良いだけになっている。話合ったわけではないが、二人の中でそういうことになっている。

「というわけで、自叙伝を出版するまでにはおおよそ百万程度必要になると思います」

 話はほとんど聞いていなかったが、百万必要だということはなんとなくわかった。

 携帯が鳴る。出版費用に回すため、固定電話は何ヶ月も前に解約していた。

 多分娘だろうと思った。

「出なくていいの?」

 通話ボタンを押し、受話器に耳を当てると案の定娘だった。

「もうあの人とは会ってないよね」

 目の前に、その「あの人」がいるから返事が曖昧になる。

 「会ってないよね。お金払ってないよね」

 念を押されるが、確かにまだ金は払っていない。しかし、払いたいくらいだ。ゴミをまとめてくれて、日常を取り戻してくれた。  

 これまでの人生を共に振り返り、出版して世に出した方が良い、素晴らしい人生ですよと励ましてくれた。

「お母さんがああなったからって、いなくなったってことじゃないんだからね」

 そんなことは一番自分がよく分かってる。

閉じた襖で、姿を見ることはできないが、誰のためについているのか分からないテレビを見つめたまま一日中横になっている、いつもの妻の姿が浮かぶ。

 夫のことも、それ以外の誰のことも分からなくなった彼女は、生きてはいるが、もう共に時間を積み重ねていくことはできない。

 あの、この世界の幸せを体現したような自分達はもうどこにもいない。

「絶対騙されてるからね、お父さん」

言い終わらないうちに電話が切れた。いや、自分から切った。

 通話中、縁側に移動して庭を眺めていた彼女に声をかける。

「ごめんね。営業の電話だったよ」

 冬になり、色の無くなった庭から私に視線を戻し、

「ネクタイ、本当によく似合ってるわ」

とだけ言って微笑んだ。

 そういえば今日の彼女は、初めてうちに来て話を聞いてくれた時と同じワンピースだ。

 何もかもを忘れた妻と、色のない時間を過ごしていた頃より、今ずっと生きていることを実感できる。

 西日が差してきた。どこまでも広がっていると思った空は、夜を迎える準備を始めていた。

いいなと思ったら応援しよう!