人形についての覚え書き 2 yumi kawana 2022年7月22日 16:44 目次 中川多理の創作人形について フェリーニ『カサノバ』の人形 祇園祭のお稚児さんと人形 ベルメール、幼年期の身体 人形にまつわる展覧会レビュー中川多理の創作人形について薔薇色の書物『新編 夢の棲む街』を手にして、その美しさと強度に己の言葉をすべて忘却する前に。昨年その一人をお迎えした中川多理先生による創作人形《薔薇色の脚》によせて、幾つかのすぐれた人形論を読みながら、批評のような覚書のようなものを書きました。https://t.co/EcAzVFFt6o— y kawana (@_yominokuni_) March 13, 2022 フェリーニ『カサノバ』の人形フェリーニ『カサノバ』は、美術とラストスパートが好きだ。女性のためと謳って一千の女を抱いたカサノバが辿り着いたのは、独身者の機械としての人形だった。自動人形を相手に踊り褥をともにするとき、カサノバはみずからの孤独をつかのま抱いたのかもしれない。「人間の隠喩」としての人形を通して。 pic.twitter.com/ZrGQYgDZt1— y kawana (@_yominokuni_) May 6, 2022 しかしこの自動人形は生身の女性ダンサーによる素晴らしい技術によって演じられたのだった。カクカクとぎこちなく腕の関節を折る人形の動き。機械としての、オブジェとしての存在になった人間。人形の隠喩へと変身した人間。私はそういう隠喩としての人間を愛したいし、なりたいのかもしれない。— y kawana (@_yominokuni_) May 6, 2022 人形と暮らしているとよくわかるが、それは私を強く引きつけながら同時にはねのける。へたな合一を望まない私のような独身者の端くれにとって、人形は最高の伴侶だと思う。ただし私は私でなく人形を愛したいので、人形との対話は今後も課題。客体化によってしか愛は発生しないというジレンマはあるが。— y kawana (@_yominokuni_) May 6, 2022 TLのみなさん、『カサノバ』がお好きなようで嬉しい。また観たくなってきた。ちなみに「人間の隠喩」の語は金森修『人形論』における概念。金森は人形を溺愛することに、他者としての人間からの撤退のみならず、むしろ融合や合一にとどまらぬ人間性の繊細さとしての他性の含まれを読み取っている。 https://t.co/47rmZyXGwi— y kawana (@_yominokuni_) May 6, 2022 祇園祭のお稚児さんと人形祇園祭前祭の長刀鉾。唯一、この鉾にのみお稚児さんが乗り、結界を断ち切る。菊地浩平『人形メディア学講義』によれば、人形劇研究の一領域において、人形には人間にできない表現や仕草が可能といった、人ならざるものとしての「他者性」が具わっているという思想を持つ人形師や演劇研究者が存在する。— y kawana (@_yominokuni_) July 17, 2022 「ひとがた」は、愛玩される前には私たちの身代りとして疫や穢を負ってきた。祇園祭の人形やお稚児さんの人形振り。彼等もまたある種の人ならざるものであるがゆえに、京の街を巡行する鉾に乗ることで穢を集める媒体として機能し、この世とあの世の磁場たる結界に触れ切断することができるのだろうか。— y kawana (@_yominokuni_) July 17, 2022 人間が人形の動きを真似て「ひとがた」となることも興味深い。主体を持つ人間がそれを手放し空洞化したような「身振り」を主体的に行うこと。無であり有であること。想像の域は出ないが、そこには河合隼雄の指摘する「中空構造」を体現し機能させる政治的意味合いも無意識に含まれているかもしれない。 https://t.co/oMQj3yilDk— y kawana (@_yominokuni_) July 21, 2022 人形振りが日本の統率者の理想的な姿を示すと同時に、遷都後から現在迄の京都の身の熟し方までも表象するとしたら。有ゆえに齎される無を再現し、無を保留し乍ら受容すること。それゆえお稚児さんは今日も求められる。京都の実存にとって、日本の「中心」を担ってきた誇り以上にそれは不可欠な演劇。— y kawana (@_yominokuni_) July 21, 2022 ベルメール、幼年期の身体まだ十代だった頃、たとえば後ろから物が飛んでくる気配を背中の筋肉や後頭部などで感じ取る能力があった。身体のあらゆる箇所には世界を呼び込む裂け目としての眼が偏在していて、全身は性感帯だった。すでに世界は分割されはじめていたが、しかし象徴として完全に閉じているというわけでもなかった。— y kawana (@_yominokuni_) November 13, 2021 ベルメールは人形の関節で身体を分割しながらも転換し、性感帯を偏在させた。それはエロスを有しながら、過剰性ゆえに性(器)的である軛から自由な身体だ。私も何らかの方法で性感帯を全身に取り戻したい。それはいったい何か、おそらく象徴=分割としての言語を尽くすことによって、だろう。— y kawana (@_yominokuni_) November 13, 2021 人形にまつわる展覧会レビュー昨日は四谷シモン「人形とパステル画」展にも。壁一枚につき一体の人形、それを連ねる数珠のように粒揃のパステル画が置かれた会場構成。この二年を中心に描かれたという柔らかな筆触の人物画は、一見、彼の人形たちと顔立が異なることから作風の変化を感じさせるかもしれない。だが、その瞳をみよ。→ pic.twitter.com/rkBOUlLR4y— y kawana (@_yominokuni_) May 21, 2022 昨日は中川多理「夢の棲む街」人形展へ。会場に散乱する薔薇の花弁は演出家たちの血糊や肉片であり、物語の世界とこちら側とをつなぐ言葉でもあり。薔薇色の帷が垂れ込む楽屋と舞台に見立てた空間に佇む〈薔薇色の脚〉たちは、花弁を捲る様に会場奥へ進むにつれ「完成」への過程を認めることができた。 pic.twitter.com/xHjIFnA8m0— y kawana (@_yominokuni_) May 20, 2022 ダウンロード copy #身体 #美術 #批評 #人形 #中川多理 #四谷シモン 2 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート