お蔵入り小説集#2
途中で断念したものから、いややる気ないだろってくらい短いものまでさまざま…♪ 年末編
◯あ(タイトル未定)
夏頃書いた話に出てきた女の子のその後を書こうと試みたやつ 脈絡がない あと正式に付き合っている人たちの話をあまり書いたことがないな、やばいな(?)と思って書いた
「あたしってさ」「誰に似てると思う?」
「え」
「誰かに似てるねー、っていっつも言われるんだよね」
「ああ」
「誰かわかんない?」
大きい箒を窮屈そうに動かすたびに、きゅっ、きゅっ、と金具の音がする。そのことにいちいち不快そうな顔をしながら、野坂は埃を集めていく。肩の上で長い髪がゆらゆら揺れて、夕日に照らされた毛先が普段より茶色くて、確かに似たようなミュージックビデオとかはありそうだと思う。
「誰に似てるとかは、わからないけど」
「やっぱり」
「野坂は、野坂じゃないの。誰にちょっとくらい、似てても」
野坂は手を止めて、こっちをじっと見た。睨まれているみたいだったけど、なんでそうなっているのかわからなくて、まぶしい夕日のほうをわざと見る。残像がふわふわと浮いて残って、野坂の顔はうまく見えなくなる。埃にも見えた。伸び切ったセーターの裾からほそい指がわずかにのぞいて、「終わったよ」それから隠れた。放課後の教室は、常に誰かが耳をそばだてているような予感があって、野坂のさみしい声も誰かが聞いているし、無理に抱きしめたら明日には噂になっているのだろうと思った。
「じゃあ、帰るか」
「とっくに無理だったし。そういうのは。わたしはわたしとか」
「机、戻そう」
「せめて、誰に似てるかわかったらさ」
「この人、荷物多いな。誰かな」
「その人に寄せて、そんで、なっちゃえばいいって思うじゃん」
「なんの話、さっきから」
「おまえには、一生わかんねー話」
「じゃあ話すなよ」
わかってくれないんだあ、とこぼして、それきり野坂はしゃべらなかった。女子はなんかむずい、と野坂と話すたびに思う。でもクラスメイトの彼女のチカちゃんはもっと素直だったはずだ。野坂はいっつも不機嫌そうだ。メンヘラ、という単語がぽっと浮かんで、そうすると野坂がほんとうにちっぽけな存在に収まっていくように思えてしまったから、彼女には言わないことにしよう、と思った。
机と椅子は全て元通りに戻したはずなのに、教室はさっきまでとはまるで形を変えたみたいに見えた。教壇の位置を少し直しても違和感はそのままで、このまま少しずつずれていくものなんだろうと納得するほかなかった。野坂は、机を床板の角に机の脚を丁寧に合わせるのをやめない。黒板の日直欄の相合い傘を丁寧に消して、明日の当番の名前を書く。強く押しつけすぎて、チョークがぽきりと折れる。ゴミ箱がいっぱいだったけど、捨てにいく気はなかった。野坂が窓を閉める。閉まっているか、何度も確認する。
同じ方向に歩いているだけ、という感覚がいつもある。同じ方向に歩いているだけ。駅までは一緒ね、とだけ決めて、歩幅も合わせないから、付き合うってそういうことなんだろうとときどき考える。野坂はおれの少し前を歩く。俯きがちに、でも確実に電柱は避けていく。隣歩かなくていいのかな、とは思うけど、隣を歩きたいわけではなかった。
少し先のファミレスの駐輪場で、同じ部活の後輩がふざけ合っているのを見つけた。誰が奢るとかそうじゃないとか、期間限定のやつまだ始まってないじゃん誰だよ嘘ついたの。おまえの姉ちゃんってどこ高。野坂がしょうもな、とつぶやいている気がしてしまって、俯いて早足になる。しょうもないよなあ、とでっかい声で言いたくなる。野坂に追いついて、手を取ったら冷たくって、悲しい気がした。指を少しずつ絡ませる。野坂の指はぴくりともせず、ただただおれの手の動きに倣うみたいに、決して気を許しているわけではないけど同調するみたいに、それでもぎこちないけど、手を繋いでいるみたいにはなった。後輩たちに近づくたび、虚しくなる。心臓の音が大きくなっていって、限界に達するころ、おれたちが追いつく前に、彼らはファミレスに入っていった。息を吐いたら自然と、名前を呼びたくなる。野坂。
「野坂って」
「うん」
「好きなやついるの」
「あたしたち、付き合ってるのに」
「そうだけど」
いないよ、と野坂は言った。ように聞こえたけど、聞き返したのはこれ以上虚しくなりたくはなりたくなかったからかもしれない。野坂はちょっと笑って、さみしいよ、と言った。「手、離して」
ごめん、と野坂がほんとうに申し訳なさそうに言うから、離すわけにはいかないとなぜだか思って、強く手を握る。野坂がほんとうに困った顔をして、ごめん、と今度はおれが言った。手は離さなかった。セーターの毛羽だった部分が手を掠めて、ちくちくする。この市役所の角を曲がるといつも行ってる美容室があるんだけど、そんなことは野坂に話したことはない。野坂は深く俯いて、おれのほうを見ない。傷んだ毛先がちらちらと日に照らされるのが、野坂の大きな傷の一部が見えてしまったようで、それすら自分のものにできたら、と思った。おれは好きなやついるよ、とどうしても言えなかった。
「三組の吉田がさ」
「うん」
「おまえのこと、気になってるんだってさ」
「あたし?」
「うん」
◯ともちゃん(仮)
なんか昔思いついたやつをリメイクしたくて書き出したけどまー続かなかった メモ程度
「ともちゃんともちゃん。どうしよう。あたし」
見たこともないくらいリアルに真っ赤な血があたしの目の前に広がって、その光景だけでどこまでも壊れていけそうだった。ともちゃん。どうしよう。ともちゃんがじっとあたしを見ている。どうしよう、ともちゃん、と繰り返して、そのうち声が枯れてしまうのもわかっているけどそれ以外しようがないんだから仕方ないじゃんって誰かに当たり散らしたかった。ゲームで見たみたいな死に方をした男を横目に、ともちゃんはあくまで冷静だった。毛根の並びに忠実な割れ目を、ただ見ている。じっと黙って、なんにも言わない。軽蔑されたくないな、とあたしは思って、そしたら涙がいっぺんに流れ出てきた。「ともちゃん」
「嫌いにならないで」
ともちゃんは、あ、と声をあげて、立ち上がった。やわらかく押し出されるみたいな声。ともちゃんの中身のいちばんやわいところにさわると出る声だ。「きらわないで」涙と血が混じりあうちょうどいいとこをともちゃんは触って、それに特に意味はなかったのだろうけど、あるいは幻覚なんだけど、うっすら微笑んだ。赦しだ、とあたしは思って、ともちゃん、好きだよ、って言った。それで、あ、好きなんだな、と思った。ともちゃん、好きだよ、そっか。
「猫にごはん」
ともちゃんは
◯下北の犬(仮)
待ち合わせとは無縁の生活の話です なにも解決されないままいろんなことが積み重なっていく感じが書きたかった これは続いてもいいかな タイトルは今つけました(noteのヘッダー画像が、下北の犬だったので…)
映画に行こう、の一言も言えないなんて、付き合ってるって言えるのかな。レディースデー、とおっきく書かれたピンク色の旗がかもめをじっと見ている。こういうの、スミハルくんは嫌だろうなあ、と考える。かもめだけ割引でスミハルくんは通常料金なんて、怒るだろうな。そしたらカップル割がいいのかな。でもかもめたち、カップルなんだっけ。付き合ってはいるけど、カップルかそうじゃないかって言われたら限りなくそうじゃないほうでふたりは蹲ってる気がする。じゃあカップル割適用外だ、と勝手にショックを受けて、話題の映画のポスターはド派手なだけじゃんって決めつけて映画館から後退りみたいに遠ざかる。
中学生くらいの男女が、ぎこちなくポスターを指さして、照れくさそうに暗闇に消えていく。あっちのほうがよっぽどカップルだった。取り残されてるな、と、誰にでもないけれど、思う。
偉ぶって腕を組む惰性でギター背負ってるだけのおじさんの話を心底ありがたそうに聞くスミハル君のことが、なんかいやだった。歳だけ食った人に頭下げたってバンドが大きくなるわけじゃないから、だからスミハルくんはときどきかもめに触るのだろうと思った。スミハルくんは、わかっている。かもめにどうにかできるわけでもないから、いつも、ただそばでぼうっとしている役だった。どう考えてもカップルじゃないなあ、と思って、またへこむ。なんでもいいから、早く会いたいなあ。まだ寝てるかな。
タイムセールは誰にでも、かもめにも平等に訪れる。それなのに、かもめのカゴの中にある割引商品は、卵だけだった。かもめとおばさまたちとでは、残念ながら、年季の入りかたが違った。他人を押しのけてしまえるほど、かもめとスミハルくんの生活は、だいじなものじゃない。から、卵。結婚したらいいのかな。卵をいっぱい買った。おひとりさまふたパック限りのセールの卵と、それから、通常料金の卵を際限なくいっぱい買った。
かもめはときどき、頭がおかしいよ。ママに言われたことをふっと思い出して、きゅうっとなる。そのままちいさくなりながら、駐車場をぐるぐる歩いた。道を譲ってくれた車がいたけれど、うまく通れなかった。
「え」
赤いでっかい文字が、地獄の入り口みたいにメラメラしている。閉店のお知らせ。地獄のはじまり。この街唯一のコインランドリー、閉店。はじまりの終わり。そんな感じ。うそ。無機質な張り紙もかたく閉じられた入り口のことも信じられなくって、張り紙をぼそぼそ復唱する。「日頃は当店をご利用いただきありがとうございます」諸事情により、八月四日をもって、「閉店とさせていただくことになりました」「お客様には大変ご迷惑をおかけし申し訳ありません」「はあ」
「ほんとに?」
なんか今日のかもめはダメダメだから、だからコインランドリーは閉店しちゃったんだろうなと思う。明日お天気も調子もよくてここにきていたら、たぶんいつも通り洗濯機は回っていた。家の洗濯機の修理をしなくちゃいけないな。家の洗濯機の修理は誰がするんだろう。家の洗濯機の修理代は誰が出すんだろう。コインランドリーが閉まってひびが入っちゃうかもしれない生活は誰が直してくれるんだろう。かもめがときどき頭おかしいのは、誰が。なんかぜんぶ、スミハルくんではないことだけはわかって、寂しかった。今更だけど、寂しいなと思う。さみしいけどすぐ虚しいになって、あー、ってちょっと声に出して言ってみる。喫煙所でちゃっかりタバコを吸っていた男の人が、びっくりして、こっちを見た。ごめんなさあい、と口パクで言う。張り紙のいちばん下の、お問い合わせ用の電話番号をじいっと睨んで、スマホのカメラで撮っておく。
「ごめ、待った?」
口パクのごめんなさいと中途半端なごめ、とでは、どっちがえらいんだろう。髪をくるくる巻いた女の人が、タバコの人に駆け寄っていく。どっちとかないか。洗濯機買い換えなきゃダメかなあ。「じゃあ、行こうぜ」「おー」かもめも待ち合わせとか、したいなあ。待ち合わせして映画観に行く約束をするほうが、何時に帰ってくるかもわからないのに部屋でひとり正座してるよりは、よっぽど幸せな気がする。
「あ」
「あー」
「えっと」
「うん」
「早かったんだね。今日、は」
「うん」
「ただいま」
「うん」
おかえり、ってスミハルくんが言って、その途端に全身の力がするする抜けてく感じがする。かもめは疲れてたんだな、とそれでやっとわかる。嬉しくて、ただいま、ともう一回言った。今度は面倒くさそうなうめき声みたいなのしか返ってこなかった。しばらくぼうっと立ち止まっていると、スミハルくんがこっちを見た。スミハルくんの目はいっつも切なそうな感じがする。かもめの膝のあたりをじいっと見て、座れば、と言った。座れば。うん。
スミハルくんの隣に座ったら、はじめてみたいに緊張した。いつもずっとこうだった。嫌がられたらいやだな、と思って、ちょっと横にずれる。どこを見たらいいかわからなくて、ミネラルウォーターのへこみをじっと見る。数える。数えなおす。中身は水道水だった。水道水を飲んだはじめては、スミハルくんと付き合いはじめたあとだ。東京の水は普通にまずい。数えなおす。いち、に、「あっ」
スミハルくんが、目だけでこっちを見る。「卵」
スミハルくんが、相槌みたいにまばたきをする。「冷蔵庫入れなきゃ」
スミハルくんが立ち上がる。「ごめんね」
なんのごめんねなのか自分でもわかんないまんま、袋を抱えてちっこい冷蔵庫の前にしゃがみこんだ。卵をひとつひとつしまいながら、スミハルくんの顔を想像する。急に声出したから、びっくりしたかな、隣座ってるの嫌がってるって思っちゃったかな、怒ってないといいな。卵をしまう。しまう。落とす。手を伸ばす。重なる。なにと? 手。スミハルくんの手だった。うあ、とかもめからへんな声が飛び出た。スミハルくんはかもめの手にしっかり卵を握らせて、しばらく手を見つめていた。「多いね。卵」「あっ。うん」「安かった?」「うん。えっと、安かったのは、うん。だいたい、そう」「だいたい?」
スミハルくんは、久しぶりに思い出したやり方を試すみたいにちょっと笑って、それにしても、とこぼした。
「買いすぎ、だよね」
「買ったとき、わかんなかった? 多いなって」
「どうだろう」「でも」「思ってないと、へんだよね」
「まあ」
かもめはたまに、そういうとこあるよね。スミハルくんがそう言って、そのあとは笑ってくれなかったから不安だった。そういうとこ、って、直したほうがいいとこかな。なおすと言えば、洗濯機だ。卵を入れる場所が埋まったから、あとはパックごと冷蔵庫に押し込んだ。そういうとこ、が積もって決壊する想像をする。トイレを流す音がする。映画どころじゃないんだなあ、と思った。
起きたら、すっごい天気がよかった。洗濯日和だな、と思って、それから、コインランドリーの閉店のことを思い出す。洗面所のかごに溜まった服を見て、ため息を吐く直前で飲みこんだ。隣町のコインランドリーに行こう。それくらい、なんてことない。洗濯機をなおすよりよっぽど簡単だと思った。
スミハルくんはまだ寝ていた。なるべく足音を立てないように近づく。浅い呼吸に耳を澄ます。ときどき薄いまぶたが震える。さざなみみたいだ、と思う。シーツを掴んで寝るせいで、シーツは剥げかけてしわしわだった。さっきまでここにかもめがいたなんて信じられないくらい、ベッドはスミハルくんひとりのものだった。
ちょうど水面に水滴が垂れて波紋が広がる感じで、電話が鳴ってスミハルくんの目が開いた。目が合ってどきっとしたのはかもめだけみたいだった。スミハルくんは寝返りを打って、シーツを邪魔そうに蹴っ飛ばす。スマホを持って、流れるように電話に出る。おあ、うん、いま、そう。おはよ。
「や。なことないって。うん。全然、なんか。いやいるけど。えー、なにそういう感じ。そういう感じか。めんどいな。うんうん今のはなしね。いやてかさ、この前言ってたあれ。あれだよわかるだろ。あーわざと言ってんのそれ。まあ。うん。眠いよ。けどちゃんと行くから。うん。三時に駅前でしょ。わかってます。おやすみ、はいはい」
週刊誌の表紙には文字が多い。あーこのちっさい文字列の中のひとつに名前が出ちゃったらどうしようって気持ちで彼とは会っている。引退、幸せ、独身、密会激写。どの言葉を当て嵌めてもしっくりこないくらい彼の猫背はひどくって、だから実際にはべつになんの心配もいらないはずだった。だからこれは心配じゃなくて、期待。
◯わからん(わからん)
このとき絶対スランプ!笑
帰り道で、名前もわからない動物が血を流して死んでいるのを見た。車が申し訳程度に血溜まりを避けて走っていく。最後に通った車は、避けたつもりで動物の右前足のあたりを踏んだ。死んでいるのに動物はちょっと揺れて、それでなんか、いやだな、と思った。ゲームで、すでに死んでいるモンスターに攻撃しようとして空ぶっちゃう感じを思い出した。イタチだかタヌキだか、とにかく毛むくじゃらの動物がけっこー死んでるんだよね田舎って。そういう話、東京ではウケるのかな。男性ボーカルの爆音があたしを素通りする。唾、痰吐き禁止、と書かれた看板がある公園で子どもがブランコを漕いでいて、ときおり水溜まりを楽しそうに浴びた。スカートが短い女子高生を見ると安心する。あたしよりだいぶバカっぽい、楽しいのって今だけだよどんまい。眩しいとか思わない。眩しいとか思わない。あたし金髪だし。
YouTubeで音楽を聴いていたから、突然歌声が途切れてコンビニの陽気な音楽が流れてきた。サブスクに入る金ってもったいないじゃん、と言ったらドン引きみたいな顔したともだちとはそれ以来会ってない。別に犯罪してるわけじゃない。ずるじゃない、無断転載じゃないし、バイト決まるまではっていつも思ってるよ。どうせもう、合わないからいいけど広告の後の音楽は街中どこででも聴ける流行りのやつで、イヤホンごと引っこ抜いた。ぶち、と引っこ抜いた先から子どものはしゃぎ声が流れこんでくる。
帰る家はいつも同じで、それがつまんないのだと気づいたときには二回生になっていた。
◯おおきいめ(仮)
これ載せた記憶も書いた記憶もない 先生が好き〜な話
やめたい。こういうの。やめたい、早く。
「せんせ」
まぶたを引っぱりながら呼んだら、思ったより間抜けな声がでた。人差し指でまぶたの皮膚を目尻側に引っ張り続けながら、ガラスに映るおれの向こうで、先生がゆっくり振り向くのがわかる。ガラスの棚の中には埴輪の偽物とかでかい地球儀とかがごちゃごちゃ入っているから、先生の顔はモザイクがかかったみたいに見えた。自分の顔もよく見えない。ずっとここにいたらいいかもな、と思う。お互いの顔もよく見えない場所がいつだってよくて、先生ってそういう存在のはずなのに。ぱっと指を離す。束の間、二重まぶたになる。ほんとじゃない顔で振り向く。
「こっちのが、好きでしょ」
先生は眉を寄せて、怪訝っぽい顔で、でも口元は笑っている。ひゅん、とまぶたがもとに戻るのがわかる。笑うと下の歯茎までしっかり見える人だ。なんにも言わないで笑う人だ。なよなよした見た目のわりに、そこが男性的なのがギャップでいいって、クラスの誰も知らない。歯並び悪いよね、と、先生はそればっかり言われてるから、まあまあ気にしているのをおれは知っている。がちゃがちゃの歯並びも好きだよっておれは言えるはずなのに、自分にはおまえの一重まぶたイカしてるよなんて言えないし、言われても困る。先生もそんなことは言わない。言わないところが好きで、先生が黙っているだけで勝手に好感度は上がっていくし、先生はもちろんそんなこと知らないで黙っているから好きとかそういう感じ出すと困らせちゃうし、こういうの、早くやめたいし、やめないと。いっそ、好きなタイプの子の話でもしたい。奥さんには愛してるってちゃんと言う? 大学生のときってどんな髪色だった? 女子のリコーダー舐めたことある? それってどんな感じなの? 唾液って絡まるとすっげえ臭いけど、先生のもそうなの? ガムって好き? おれ今持ってるけど。先生の生まれてからのことぜんぶ知り尽くして、解像度を上げて、おれの理想の先生を綺麗さっぱり殺したかった。先生が自分のことしゃべってくれれば、それだけでおれの恋なんて木っ端微塵になるのに先生はなんで世界史の話しかしないんだよ。先生だからか。
先生は、どこに行ったってどうしたってクラスの女子でも男子でも先輩後輩近所のおっちゃんバイト先のお姉さんでも叶えてくれない理想を投影するにはもってこいで、先生が歯並びを気にしているというのもおれの妄想だ。少しずつ注射を打つみたいに、先生に理想を注入して、違う人に見えてきて、そのうち拒絶反応みたいなものが起こって終わるはずだった。それなのに、先生はびくともしない。たぶん、実態がないからだ。先生はほとんどのっぺらぼうで、おれは自由に、好きな色で、顔を描いている。歪んでいても誰も止めない。やめたい。やめられない。けど、おれはいっこだけ、滅びの呪文を知っている。
「先生」
先生がまた、こっちを見る。先生のまぶたの皮膚は薄くっていいよな。全体的にうすい顔なのに眉毛だけは濃くて、アンバランスだ。鼻は小さいし、唇もぺらぺら。カサカサ。魚介類みたいな顔だって三組のカノコちゃんが言ってたよ。おれは好きだよ。先生が瞬きをして、それから、首を傾げる。今度は困らせないことを話そう、と思う。
「おれ、世界史の先生って、もっとヘンな人だと思ってた」「思ってたより普通だったって言われて、フラれたこととか、あるでしょ」
先生は微妙に口元を歪めるような顔をして、そうかも、と言った。また困らせたな、とわかって、ガラス棚の方に向き直る。先生は机に並んだプリントの角を揃えながら、ファイルにぱちんぱちんと綴じていく。おれもどっかに分類されて綴じられてるんだなって思ったら、もやもやした。おれのプリントだけを丁寧に添削してくれたら、どれだけいいだろうって思う。いつだって平等に掠れたスタンプを押す先生が好きなはずなのに、おれは先生にバツをつけられたい。「おれはあるよ」
ガラス越しに先生が顔を上げる。どんな顔をしているかはわからない。ガラス越しでも顔を見られるのはなんとなくいやで、俯く。
「昨日のことなんだけど。付き合ってた女子に振られたんだよね。三組の、南佳乃子。知ってる? なんかおれのこと、クールな人とかって勘違いしてたらしくて。一ヶ月もしないうちに、バレちゃったんだよね、普通なの。顔のせいかな。映画見終わった後とか、普通に超はしゃいじゃうし。こういう人だって、決められるのって、結構きついなって。先生は、そういうの、ないの」
言ってから、おそるおそる顔を上げると、先生の姿がすぐ後ろにあって、え、と思う。先生の視線がつむじのあたりにある気がする。そこだけ光線を受けてるみたいに、じくじく熱くなる。口を開くと、ひゅう、と音がする。いつになく近い距離に心臓は否応なく跳ねる。先生の手が伸びてくる。白いな。汗の匂いする。先生の手は、おれを素通りして、おれの目の前のガラスに触れた。あ、そっちね。押し開ける。埃っぽい。「ちょっと、退いてくれる」
「あ。はい」
身を引くのと同時に、するすると熱は冷めていった。先生がファイルをぎゅうぎゅうの棚に押し込んでいく間、その横顔ばっかり見ていた。まつげ、思ったより長い。おれ、先生について知らないところがまだまだ、いっぱいあるんだなって思う。まつげに埃が乗っかって、思わず手を伸ばす。先生がこっちを見ると同時に指が触れて、埃はふわっと浮いてどっかに消えた。先生が訝しげにおれをじっと見て、どうしたの、って言った。ガラスの扉を閉める。諭すみたいなやわらかい声だった。ぴしゃん、と鋭い音がして扉は閉まる。やっぱり、入っちゃだめなんだ、と思う。おれは、クラスのみんなと、社会の教材と一緒に、ガラスの棚の中にいる。こんなに近いのに、先生とは隔たれてばっかりいる。教えてほしいバツをつけられたい汚い言葉で罵るみたいに怒られたい触りたいぜんぶ届かない場所にいる。ほこり、とおれは言って、先生は安心したように笑う。
「さっきの話だけど」
「あ、はい」
「なるべく理想通りでいたいって、思うよ」
「ねー秋山あ。起きないの? 昼休みだけど、もう。購買行こうよ」
顔を上げて目を擦ると、ひゅる、とまぶたが畳まれるみたいな感覚があって、何回かの瞬きのあと、すぐ戻る。視界はぼんやりして、モザイクの中でクラスメイトがわらわら動き回っている。机を動かす音。こっちくれば? と誰かが言って、静かに、と廊下で先生の声がする。購買購買、という声はそこかしこから聞こえて、おれたちが着く頃にはぜんぶ売り切れてんじゃないの、と想像したら身体がだるくなった。それで、机にへばりついたまま動けなくなる。うちの温玉カレーパン、と松本が嘆く。静かにね、とまた違う先生の声がする。先生。反射みたく顔を上げて、廊下を見る。「あ。起きた。ね、購買」
生徒の群れのなかに、それだけがきらきら光って見えるひとりがいて、先生だ、ってわかる。頭しか見えなくてもわかる。見つけられた自分がなんとなく誇らしくて、世界のどこにいたって見つけちゃうんだろうな、と思う。
「なにニヤニヤしてんの。キモ。購買だってばー」
「もう売り切れてんじゃない。カレーパンだっけ」
先生が廊下の端っこに消えるまで目で追って、それから、購買ね、と隣を見たら、もう松本はいなかった。
「おまえのせいだから」
放課後になっても、松本は温玉カレーパンのことを根に持っているみたいだった。おまえのせいで売り切れちゃったじゃん、と詰るように何回も言った。自転車を押しながら、今日は先生に会えなかったな、と考える。ローファーが鳴らす音を、後ろに聞きながら歩く。こんこん、こんこんこん。かん、こんこん。
「なんかないの、お詫びの品」
「お詫び、お詫びね。お詫びかあ。あ」
「わ。あ、なにこれ。ガム?」
「ガム」
「ガムって。なめてんの?」
ポケットに入っていたガムを渡すと、松本は顔を思いっきりゆがめた。結局、先生はガムは好きなんだろうか。理想通りでいたいっていうなら、ガムもたぶん、受け取ってくれたよな。喜ぶふりもしてくれたかな。渡せばよかったな、と思ったけど、渡したものを返してもらうわけにもいかないから、松本の手にあるガムをじっと見るだけだった。「まあ、悪くないかな」
「ま、秋山って、そういう人よなー」
こんこん、こん。こん。「あ」
「てかさ、知ってる?」
「なにを」
「南佳乃子」
「それが?」
ちょっとスマホ貸して、と松本が言って、おれのポケットからスマホを抜き取る。「パスワードは」「はち」「うん」「はち」「お」「いち」「ん」「いち」「はい」「に」「ほい」「さん」
「南の誕生日?」
「ありえない」
ふうん、と松本は少し楽しそうに言って、先生の誕生日だなんて口が裂けても言えないからおれは、黙っていた。松本はインスタを勝手に開いて、南佳乃子のアカウントを表示させる。おれと別れてから何回もころころ変わっていたプロフィール写真は、また見慣れないものに変わっていた。あとから出てきた生徒たちに追い抜かれながら、歩く。ときおり、あ、先輩、と冷やかすような声が飛んでくる。それはたぶん松本のことで、またこういうのだ、と南のアカウントを見ながら、思う。誰かが考えた間違ったおれが注入されて、どこかがひりひり痛む。
「これこれ」「新しい彼氏、もうできたって。やばいよね。早くない? それがさ、めちゃくちゃやばいやつらしくて」
松本が見せてきたのは南と誰か、男とのプリクラで、丸っぽい字で日付が書いてあるのがなんか、馬鹿らしくって笑ってしまう。南はやたらとパスワードをこういう記念日にしたがったから、今はもう新しい記念日になっているんだろうな、と思う。
「か」
「か?」
「南。顔、全然違うね」
「あー、まあ。プリクラって、盛ってなんぼでしょ。見てほしい自分って、あるじゃん。そういうの。目、デカくしてさ。まつげもバチバチがいいし、唇も好きな形がいいし。うちだってあるもん。好きな人が好きだろうなって思う自分でいるとか、あるよ。でもわっかんないかあ、そういうの。疎そう」
「わかるけど」
「へえ」
「おれも、目、でかいほうがいいし」
うそつけよ、と松本がけらけら笑う。合わせて笑う。どっかがひりひりする。
「先生」
先生といるときはひりひりしないからいいなって思う。期待されないのが気持ちいいって、おれはどっかおかしくなっているんじゃないか。社会科室の窓は珍しく開いていて、風が吹くたび先生の細いまつげが揺れるのを、じっと見ている。そういえば、先生と向き合って座るのは、はじめてかもしれない。先生がふと顔を上げて、目が合う。困ったように
◯幽霊(仮)
最新のやつ かけなさすぎるーー
玄関には、ひものゆるんだスニーカーや高いヒールの靴がいくつも散乱していて、ぼくは扉と玄関のかろうじてある隙間を埋めるみたいにローファーを脱いだ。一人暮らしなの、と清野は言った。どう考えても嘘だった。廊下までの足場がないから、薄汚れて焦茶色になったスニーカーを仕方なく踏む。いちばんきれいなものを選んでそれだった。スニーカーはびっちょびちょに濡れていて、靴下にシミが広がっていくのがわかる。廊下に立つと、清野の髪がふわりと揺れた。窓、開けたから。清野の声がいつもより透明っぽかった。午後の光が玄関にまで届いて、廊下の傷をありありと照らし出す。清野は困ったように笑う。「部屋、いっこしかないから。来て」
奥の部屋に清野が消えていく。消えていくって言葉そのまんまで、扉を幽霊みたいにすり抜けていってしまうように見えたから、慌ててあとを追った。廊下は冗談みたいに短かった。扉はすり抜けようがないほど立て付けが悪くて、ぎちぎちと音を立てながら開いた。幽霊は信じてるわけじゃないけど、なにがなんでもいないと思ってるわけでもない。清野はちゃんとベランダの大きな窓の前に立っていた。
「今日のオーディションさ」
「うん」
「わたし、絶対落ちたな」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?