不満に囚われない
もう直ぐ大学も卒業です。
今回は卒論ではないですが、読書感想文を書いていきます。
「幸せになる勇気」
読んだことがある方も多いことでしょう。アドラー心理学の本でベストセラーを記録した「嫌われる勇気」の続編です。
幸せにはなりたいしな、というシンプルな思いから手に取りました。
ある哲人と教師である青年の対話形式で話は進みます。その青年は3年前の「嫌われる勇気」でアドラーに感銘を受けます。そして、実社会で実践しようと心に決め、哲人の元を去りました。しかし、教育の現場においてアドラーの教えを実践するのは不可能であり、アドラー心理学は机上の空論だと思うように。そして再び哲人の元を訪れて物語は始まります。
青年の口調は少々荒めですが、哲人の語るアドラーに対する彼の反論は、自分のアドラーに対して抱くだろう反論そのものでした。それゆえ、読後にアドラー心理学がいかに幸せになるために必要なのかを納得させられている自分がいました。
特に自分の心に刺さったのは「尊敬」に関する話です。
尊敬とは?
尊敬って何だと思いますか?誰か尊敬する人はいるでしょうか?
中学時代。文武両道でおもしろかった生徒会長のK
高専のバスケ部で出会った、圧倒的なリーダーシップを持つ二つ上の代の主将Mさん
留学先で出会い、その独特な感性に痺れさせられたKさん
麻雀を極め、競馬を愛す博徒のTさん
リヴァイ兵長
ゾロ
ウォーキングデットのダリル
ジェイソンステイサム
ラッパーのSAMや呂布カルマ
他にも大勢尊敬してきた人がいます。
僕の中での尊敬は、何かにすごく秀でている人や、生きる姿勢や物事への取り組み方で真似したいと思える人に対して抱く思いです。真似はしたいですが、簡単に真似できないからその人に尊敬を抱くものだと思っていました。「憧れ」と尊敬はほとんど同じ意味という認識です。
一方幸せになる勇気では、尊敬は以下のように記載されています。
「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。」
「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気遣うことである。」
エーリッヒ・フロムという社会心理学者の言葉です。
自分より何かに秀でた人、この人凄い、こんな生き方がしたい、というのは尊敬ではなく「憧れ」である。フロムによると、これまでの自分が尊敬だと思っていた憧れの感覚は、尊敬ではないのです。フロムは続けます。
「憧れ」とは恐怖であり、従属であり、信仰である。
相手のことを何も見ておらず、権力や権威に怯え、虚像を崇めている姿である。
バッサリと斬り捨てられた気分でした。
こんな人になりたい、は憧れであって、ありのままの相手のことを見ている訳ではない。自分が勝手に作った虚像である。確かに、自分がこれまで憧れてきた人たちとは断片的にしか接してきませんでしたし、アニメやラッパーに関しては画面越しでみる虚像であり、会ったことすらありません。
ただ、憧れの思いが自分の大きなエネルギーになっていたのもまた事実です。
虚像
僕らは無意識に虚像を抱きがちで、その虚像に囚われやすいものだなと。
初対面の際には特に虚像を抱きやすいのかなと。
外見で判断してしまいがちなのはもちろん、この人はこんな人間、と勝手に自分がこれまで会ってきた人にその人を当てはめてその人をみることなんて、良くあることなのかも知れません。実際に会ったことがなくても、SNSを通してその人を認識する際には特に、虚像を抱きがちだと感じています。
また、親しい人にでさえ、自分の作る出す虚像を通してその人をみているなと実感させられます。
年末年始は実家に帰り、祖父母に会いました。二人とも変わらず元気でしたが、祖父はここ数年で足を悪くしてしまい、基本家から出ることはありません。僕の中には、まだ自分が小学高低学年の頃に毎日車でジムに出かける祖父の姿が浮かびますし、一緒にキャッチボールをした祖父の姿も浮かびます。自分が作る虚像というのを通して今の祖父を見ているということです。
そして虚像は、自分を認識する時にも抱きがちなものです。
コロナ禍に趣味で始めたダンス。踊り始めて早3年半が経ちました。これまで何度もレッスンに通ったりして、様々な知識を得たりもしました。踊るペースは時期によってムラがありますが、今でも楽しんでいます。
ダンスを始めた頃は、自分の踊りを見てよく絶望していました。
踊ってみて、自分のイメージの中ではこんな風に踊れている、と勝手に認識します。でも、動画で自分の踊りを確認してみると全く違うのです。手足の置き所から角度、リズムの入り方、グルーブ感、メリハリ、質感、、、
自分はこんな風に踊れているだろうと勝手に認識します。でも、踊った動画を確認してみると自分のイメージと実際の踊りはいつもかけ離れていました。
自分にでさえ、「虚像」というものは抱くものです。いかにこれまでの自分が自分が作り出す「虚像」を通して人を見ているのかを痛感させられるものです。
誰かを尊敬できるようになるには
「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。」
「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気遣うことである。」
自分をありのままの状態で見ることさえみることが難しいのに、相手のありのままの姿をみることは本当に難しく思います。ありのままを認識するためには、その人と過ごした過去や自分の価値観の眼鏡を外し、実像だけを見る必要があるからです。自分が信じる価値観や過去の出来事を取り払って、フラットな状態で相手や物事をみるなんて果たして実際にできるものなのかと、、、
正直、この感覚を「尊敬」と認識するのには違和感を抱かざるを得ません。
一方で、過去の自分を思い返せば返す程、今の自分に必要なのはこの「尊敬」であるなと確信しています。
それは、「不満」に囚われる自分がいるからです。
不満に囚われないためには尊敬か?
大学の授業。
もっとこうした方が学生に寄り添いながら、効果的に学習を進められるのに。。という不満を抱えることがありました。大学のチュータリングプログラムでチューターを勤め、少なからず効果的な学習とは何か?学生に寄り添うとは何か?と深く考える機会を得てきた過去がそういう不満を自分に抱かせるのでしょう。
バイトをしていても不満を抱くことが多かったです。週末と平日の労働量が違うのにも関わらず時給が変わらなかったことに対して不満を覚えました。バイト先の友人の多くが平日と休日の賃金の差に不満を抱いており、賃金を変えれば皆んなよりイキイキして働けるようになるだろうと思っていたからです。
自分の仕事を放棄して他のスタッフに話しかけながら働くあのパートさん。その人の仕事のミスのカバーをした時にも大きな不満を抱きました。普段からいい加減に働いている人のミスの尻拭いをすることには不満を抱かざるを得ませんでした。この不満は怒りに変わり、その人を遠ざけました。
そして、こういった不満が現状をより良くしうるためのアイディアや原動力になり得るのもまた事実なのかなと。
ただ、幸せを目指すにはこういった不満に囚われてはいけものだと感じます。
「かわいそうな自分」や「悪いあの人」という不満に囚われる原因になる面を見るのではなく、不満の「これからどうするか」の面を見続けること。
そこで、フロムの「尊敬」の感覚を持っていれば、ありのままの自分と相手をみることで、「かわいそうな自分」と「悪いあの人」の面を見ることなく、不満を原動力に「これからどうするか」の面で生きていけるのかなと。
ありのままの自分と相手をみる。唯一無二の存在であると認識し、気遣う。
「これからどうするか」だけを見るために、フラットな感覚で世界を見ること。
今は、それが幸せの在り方の一つだと納得しています。
少しずつでも、虚像を抱かずに、自分と相手を「尊敬」できる自分であり続けたいなと。そんなことを思いながら、今日も今とこれから先を見ようとしています。
「幸せになる勇気」
正直なところ、読んでいて目を背けたくなる教えだらけでした。読んでいく中で、自分の何重もの価値観という壁が壊されまくりました。でも、アドラー心理学を実践する勇気をもてば、幸せになれると納得させられる内容です。
幸せになりたい全ての人にお勧めしたいです。
読んでくださりありがとうございました。
Have a great day.