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狭い世界の幸福論 ■ 社会性とは、社会へのギフトである

先日、アルゼンチン出身の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「エバリスト・カリエゴ」を読み終えて、心に詩的な南米の風が吹き、良い気分になっていた直後、開いたSNSトレンドに〈ビットコイン〉とあって、あっという間に〈心象〉が〈現実〉に塗り替えられた。

そんな世界線はほんとに糞だと思った。


狭い世界とエコーチェンバー

幸福は、試行錯誤した結果の選択により、世界観が理想的に狭く安定している状態の中で生じやすい。という、この〈狭い世界の幸福論〉はリスキーだが正しい、そう考えている(それがインナーセンスなら相当強い)。

(注釈) 世界を狭く捉える。これは、未知の情報を意図的に遮断することでもあるので、社会の急激な変化=パラダイムシフトについていけない可能性が高まる点に、大きなリスクがあるということだ。

〈狭い世界の幸福論〉は、収益構造さえ確立させたなら、あとは好きな情報に囲まれて生きていけば自然と幸福だ、というスタンスで、刺激の余地を作っておけば間違いない。

そうやって築かれた環境がエコーチェンバーを生み問題視されるわけだが、エコーチェンバー(英: Echo chamber)とは、

自分と似た意見や思想を持った人々の集まる空間(電子掲示板やSNSなど)内でコミュニケーションが繰り返され、自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込んでしまう現象

Wikipedia 日本語版

を指す。

ところで自分は、地球が4つあるという世界観を重視して生きている。これは、いわばエコーチェンバー崩しで、つまり〈狭い世界の幸福論〉へのアンチテーゼなのだが、インターネット以前の世界線に強くあったマイノリティ問題と関係している。もしくは、世界観崩壊の危機へのカウンターとしてのカットアップ(後述)と関係している。

例えばインターネット以前、同性愛者はほとんど日本にいないと思われていた。ある界隈に辿り着けば必ずしもそうではないということに気づけたが、情報メディアがテレビとラジオ、そして書店しかない世界線で、その界隈を話題にすることはほとんどなく、とりわけ思春期頃にその界隈にアクセスすることは不可能に近いため、自分は同性愛者だと気づいた者は世界で自分だけが同性愛者なのだという孤独に苛まれ兼ねなかった。社会によるエコーチェンバーの檻の中で死を選ぶほどの恐怖感が時にはあった。この零度の孤独感が〈マイノリティ〉の根底にあり、単なる少数派という概念よりも深刻な状態だ。これは、90年代後半以降、そして今では、10代でもインターネットにアクセスできるため、簡単に打破できる。ここでのインターネットが、正のエコーチェンバー崩しの役割を担っていると言える。

先のアルゼンチン作家を読んだ感動がたやすく残念にも削りとられるSNSのトレンドやタイムラインとして先に記した負のエコーチェンバー崩しや、近年話題にされている、SNSにおける負のエコーチェンバー装置、つまり、世界的に見ればマイノリティであるにもかかわらず同意者ばかりをフォローしていたせいで自分達がマジョリティだと信じて疑えない錯覚からくる世界認識ミス、井の中の蛙のような現象のために次の一手を大きく間違うような致命的関係性空間。それを、単純に否定するのではなく、強く仮想現実認識してしまえる装置は必要なのだと思う。

なぜなら〈狭い世界の幸福論〉自体は正しいと思っているからだ。

先のアルゼンチン作家を読んだことで、心に詩的な南米の風が吹いたことなど、自分は今21世紀の日本にいるのだから書物に長く接した条件からくるエコーチェンバーであり、過ち、錯覚なのだ、などとは決して思えない、ヴァーチャルであっても南米の風は吹いたのだから。

社会性とは、社会へのギフトである

〈狭い世界の幸福論〉は、旅先でほどほどに裕福そうな高年夫妻が、背景に深い影もなさなさそうな真のオーラを放ちながら、意気揚々と観光を楽しんでいる様を見て、ふと思ったことだ。

社会性とは、社会へのギフトである、と自分は考えている。例えば、生活の安定を構築したあと、余った財産の一部を、支援を必要としているところへ寄付なり投資なりすることで、その行為者に社会性が生じる(=徳を積む)と考える。

余った財産を持つ者が、それを貯蓄し、自らの娯楽のみに費やし続ければ社会性は低い。

話はシンプルではなく、先の夫妻が観光地へ出向くこと自体、経済を回しているし、別件、自身の欲望のために推し活をすることも、推し対象を潤わせ、加えてその他の経済も回している。

夜の街、酒クズだって、バーに貢献している。

しかし、それらは弱い社会性だ。

発信力の強いインフルエンサーが、村興し先へ出向き〈◯◯を救いたい〉と見出しをつけて動画投稿するならそれは社会性が高い。

ビジネスの成功は社会性ではない。成功してから何をするかで社会性が測られている。

パンデミック禍の頃、マスクをつけること等を社会性と名づける流行があった。これは、良いと期待される未来に紐づいた大きな社会のかじ切りに自らの自由を投資しているから、社会性なのだ、と自分は考えた。

この国は、強固な建前領域へアクセスし幾らかの自由を投資することで、本音という個人の残りの自由を守っている構造を持つ。

だから、自由の投資なく個人の自由を貫いている人には、社会性がないという烙印が押される。

こう解釈すれば、数多の非社会性のあり方とその異邦人型メソッドも弾きだせるだろう。

カウンターとしてのカットアップ

複数の世界線がガラッと変わるカットアップを、刺さらない人に説明するのは難しい。展開がダイレクトにおかしい音楽を、どうノレばいいか分からないと述べた知人の学生に説明できなかった。きれいに転調していく曲ならノリ方が分かっても、カットアップくらいガラッと変わると理解できないらしい。

先に記したように、カットアップは、世界観崩壊の危機へのカウンターとして存在意義を持つ。

負のエコーチェンバー、例えば大失恋をしたとき、友達を酒に誘って朝までグダグダに馬鹿騒ぎし、寝落ちるまで絶望している世界線をずらす行為は、大失恋という本筋からのカットアップだ。

大失恋後にどうでも良い男と寝る女もカットアップだ。音楽をかけながら話していて、気分を変えたくて雰囲気の違う曲に変えてムードを変化させるテクニックもカットアップだ。引っ越しはカットアップだ。カットアップとは、きれいにスライドさせるのではなく、オンオフのようにガラッと変えるテクニックで、文学ではウィリアム・バロウズがこれを極北まで突き詰めて名づけた。

上で〈狭い世界の幸福論〉について解説したが、狭い世界が監獄である場合もある。監獄にいるとき、自殺しないために、世界をぶち壊すしかないかもしれない。その究極のカットアップができないときに取る手段、地獄のような環境の中、ヘッドホンやイヤホンから音楽を聴き外の世界を日常的に遮断する処世術はカットアップだ。暗い部屋でいきなりカーテンを開けてみるのもカットアップだ。曲がり角の先が素敵な場所を見つけるのもカットアップだ。どうでもいい世界のなかで唯一楽園の片鱗を聞かせてくれるポッドキャストに集中するのもカットアップだ。

もちろん、マッチ売りの少女もカットアップだ。

ある出会いで、世界が違って見えるようになることもある。角度が違えば同じものが別のものに見える。世界は、決して一つではない。

遺伝子もそうだが、一つであってはならない。

この世界はあらかじめマルチバース(多世界)であり、スキルを得ればマルチバース間を自在に飛び回れるようになる。そうした経験のなか、最強の世界を発見しそれを増強し死守したならそれこそ〈狭い世界の幸福論〉であり、それが地獄に変わったとき、または、滅びそうなとき、再度マルチバースへカットアップすればいい。

それは、〈次元の移動者〉モードを指す。

_underline, 2025.2


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