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六本木クロッシング展・2023

これまで「現代アートは難しい」となんとなく避けてきた。でも色んな人がオススメしてる六本木クロッシング展に行ってみたら、現代アートの楽しみ方がなんとなくわかった気がする。

展示は全体的に「異なる視点をもつ人々が、どのように現代社会をみてるか」が交差していた。なかでも特に印象的だった作品をピックアップしてみる。

奴隷の椅子(松田修)

薄暗い部屋に入ると、女性がひとり語りで半生を振り返る映像が流れている。面白そうだな、と椅子に腰をかけて映像を見てみた。女性は昔のネガ写真で、口だけが動いていてなんだか不自然というか、不気味。語られるのは彼女の半生だ。赤線の地域で生まれ、なんとか生き抜いてきた話は、とても生々しい。

「自分の人生に後悔はないが、自分で選んだ人生ではなかった」「あなたにはわからないでしょ」というメッセージが突き刺さる。

展示会に来る人は、きっと彼女のような人とは縁のない生活だし、彼女の話す「あなたたち」。でもそんな私たちが座っていたのは、「奴隷の椅子」だった、というオチ。私たちは彼女のような生活を見てみぬふりして、つながってないように思い込んでいるだけかもしれない。

アイヌと沖縄

「日本」を考えるうえで、これらを同じ空間で見れたのは面白かった。改めて「国民国家」はイマジネーションでしかない。

AINUは一つひとつのポートレイトから、作者と相手の信頼関係が伝わってくる。後日読んだ作者のインタビューでは、現地の人々と徐々に関係性をつくって作品を撮れるようになっていったそうだ。

写真ってほんの一瞬から撮影者とその場所の関係性が垣間見えるから面白い。

声枯れるまで(キュンチョメ)

これも映像作品で、テーマは名前を変えた人々へのインタビュー。登場するのは自身の名前に何らかの違和感を感じて改名した方々だった。

作品鑑賞を通じて、名前ってアイデンティティの塊だと思った。ともすると呪いにもなりうる名前。今まで当たり前すぎて気づかなかったけど、この映像を通じて気づいたのだった。

私自身、小さい頃は自分の珍しい名前がとても嫌だった。ある時しっくりきて、今では好きだけど、それまでは心地が悪かったことを思えている。

この作品の最後は、登場人物たちが改名後の名前を叫びつつけるシーンだった。このシーンと、映像に出てきた1名の「生まれ変わったら気持ちと身体が一致してほしい」というコメントがすごく印象的だった。誰だって「しっくりくる」名前であってほしいし、それを受け入れる社会であってほしいと思う。

移住の子(進藤冬華)

その可愛らしさと裏腹に、強烈なメッセージのある作品だった。博物館の展示品を「つくる」行為は、旧来の博物館に対するアンチテーゼだけでなく、北海道を制圧してきた歴史への抗議なのかもしれない。

美術品ともなりうる美しい刺繍や手仕事が、資料として展示される博物館。見学者は展示品を史実といして客観的に見る。この構造に美術館との違いがあるのかもしれない。

彫刻のつくりかた(AKI INOMATA)

ビーバーがかじった木を展示した作品‥いや、これは果たして作品なのか?という、哲学的な視点も突きつけてくる。私はアートだと感じたけれど。ありのままの自然を美しいと感じてアートにする、人間の感性の豊かさについて考えるきっかけにもなった。

でも人間ってすごいと言いたい訳じゃなくて。きっとビーバーからすると、「こんなものを美しいなんて訳がわからない」って思ってるかもしれないな。この展示を見た後、ふとアートっていつ生まれたのか調べてみた。ウィキペディア先生をまとめると以下。

artはラテン語のアルスars、ギリシア語のテクネーtechnに由来し、「学問」と「技術」の二つの意味を内包していた。漢語「藝術」は「後漢書 孝安帝紀」に用いられ、「学問と技芸」をさしていた。

つまりアートは技術的な側面で長く使われてきて、アートたらしめたのは近代に至ってからだと思われる。アートには決まった型も定義もなく、美しいと思ったらすなわちアートなのかも‥なんて。

一つの企画でここまで楽しめるなんて期待以上だった。現代アートの面白さは、社会を見る視点が増えることかもしれない。3年後のクロッシング展では、どんな展示が見れるのか今から楽しみ。

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