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適応障害と向き合う大学生日記

はじめまして。
25卒、来年から社会人の大学4年生、さくらと申します🌸

家庭の事情で大きく環境が変わり、今年の4月頃から本格的に始まった卒業研究と上手く向き合うことができず、8月末に適応障害と診断されました。

noteでは、その経緯とありのままの自分の気持ちを、自分の心と頭の中を整理するためにも書いてみたいと思います。

今回は、私が適応障害になるまでの経緯を綴ります。

少し長くなりますが、お付き合いいただける方はよろしくお願いいたします‪☺︎



頑張ろうと奮闘した矢先

有難いことに就活が3月に終わり、4月からは卒業研究だけだー!と、意気込んでいました。

意気込んでいたはずでした。

この調子で頑張るぞっ!と思っていた矢先
第一志望の内定が決まった日に、
母から「癌になった」と告げられました。

動揺が隠せませんでした。

母は、癌のことが分かってから私の就活が終わるまで、気を遣ってずっと黙っていたのです。
就活で100%の力を出し切れるように。

家は母子家庭なので、私の周りを取り巻く環境は大幅に変化しました。
それと同時に、卒業研究もスタートです。
ここまでが3月の話。


私を取り巻く環境の変化


まず、4月から9月まで3週間に1回の抗がん剤治療。
今まで見たことがないくらい苦しんでいる母の姿を見るのはとても辛く、何度も何度も目を背けたくなりました。

「あと何回耐えなきゃいけないんだろう。」
「もう嫌だ。」

と弱音を吐く母を見るのは初めてで、慣れるまではとにかく辛かったです。

でも、一番辛いのは母本人。
少しでも元気がある時は常に明るく振る舞う母を前にして、私がめそめそしていられる訳ないじゃないですか。
一番頑張っている人の前で弱音なんて吐くことは出来ませんでした。

大幅に時間を費やす卒業研究がなければ、もっと余裕を持って全てをこなしていたかもしれません。
大学の授業、卒業研究、家に帰ってからは家事、バイト、母の闘病を支える生活。

常に気を張っていて、4月からは一時も心が休まることはありませんでした。

が、少ししんどいなーくらいの気持ちで4.5月は駆け抜けました。



次第に卒業研究が重荷に感じるように

私の卒業研究は、ある博士課程の大学院生の方が3年かけて研究するテーマの1年目の部分を成果として提出する、という形で、大学院生の方と共同作業で取り組んでいます。
その為、私が凄く興味のあるテーマ!どうしてもやりたい!という訳でもなかったのですが、大学院生と相談しながら進められるのは心強いなと思っていました。

今思うと、1人の独断で研究を進めたりペースを緩めたりが出来ない研究だからこそ、適応障害に繋がる症状を加速させてしまったのかもしれません。

毎週のゼミで1週間の成果を報告し、次週までにやることと今後の方針について先生から助言をいただきながら決めていく。
この流れで毎週毎週足を止めることなく、研究は進んでいきました。
7月の3週目に第一回目の中間審査会を控えていたため、立ち止まっている暇はないと、しんどいと感じてもそれは甘えだと言い聞かせ、自分を奮い立たせていました。

けれど、4月からの母の抗がん剤治療とそれに伴う環境の変化で、私のキャパは既に80%埋まっていました。

80%埋まっている、ただそれだけなら良かったのですが、私は卒業研究を50%と捉えてしまい、常に130%全力フル稼働のような感覚に陥ってしまったのです。
私にとっては卒業研究の存在がとても大きく、負担に感じていました。

常に全力で走っている、走り続けている、休む暇がない、心が休まる場所がない、助けて。

6月頃から、このように思うようになりました。

また、考え事をしすぎて眠れなかったり、夕方から夜にかけての時間帯、夜中は焦燥感や不安に駆られて泣くことが多くなりました。
ただし、母に気付かれないように、声を押し殺して。


学内カウンセリングに通い始める

大学には学生相談室という、常駐している心理カウンセラーさんにどんな些細なことでも気軽に相談できる場がありました。

精神科や心療内科を受診する程ではないと思っていたのか、それとも受診する勇気がなかったのかはよく覚えていませんが、ひとりで抱え込むことに限界を感じ、6月の半ばに学生相談室の門を叩きました。

担当の心理カウンセラーの先生はとても優しく、これまでの経緯や相談事、不安ごとなどを問診票のようなものに記入して、卒業研究に取り組むのが辛いこと、母のこと、離婚した父のことや家族について、ゼミについてなど詳しく話を聞いてくださりました。

その過程で、たぶん最初からボロボロ泣いてしまっていたと思います。
初めて自分の本音をさらけ出して、弱音を吐いて、とにかく先生の前で泣いて泣いて泣きまくりました。

相当ボロボロだったのか、しばらく学生相談室に通って欲しいと言われ、毎週自動的に予約が入れられていました。

学生相談室で心理カウンセラーの先生に話を聞いてもらっている間は、一時的に心が軽くなります。
ですが、その効力は長くは続かず、家に帰って不安感に襲われて泣く日々を過ごしていました。

最初は3週間に1回、次第に1週間に1回、2〜3日に1回と、不安や焦燥に駆られて涙が出てくるペースはどんどん間隔が短くなっていき、この頃には、突然流れ始める涙に対応することも出来ず、制御不能状態。


6月の下旬頃には、とうとう身体にも不調が現れて来ました。

頭痛、立ちくらみ、耳の閉塞感、えずき、倦怠感。
何もやる気が起きない毎日で、とにかく気力がない、大号泣。辛い。立ち止まりたい。



もう無理だと感じた7月


7月上旬

友達と会っている時にも "ぞわぞわぞわ"という感覚に襲われ、急に泣き出していました。

こんな形で泣くのは初めてで、自分でも動揺が止まらないし、友達もかなり動揺して戸惑っていたと思います。

そこから数日間は、無気力状態でした。

毎日、夜になると涙が出てきて眠れない。
大学に行く電車の中では気持ち悪くなり、更に息苦しい。通学がしんどい。度々電車の中でも勝手に涙が流れてくるようになりました。
K-popも大好きなはずなのにうるさく感じて、この頃は合唱曲やジブリのサウンドトラックばかり聴いていたと思います。

もう疲れた。3日間くらいぼーーーっとして何もしない時間が欲しい。何もしたくない何もできない。

心の中ではそれしか考えられませんでした。


その週のカウンセリングで、ずっとずっと「大丈夫です。」が口癖だった私に

「すぐ大丈夫って言うけど大丈夫じゃないよね、少しでもしんどいと思ったら休んでいいんだよ。」

と言ってくれた先生。
私の心を見透かされたようで、気が付いたらまた大粒の涙が頬を伝っていました。

卒業研究を進めるペースをなんとか出来ないか、もしくは休めないかゼミの教授に相談したらどうかとカウンセリングの先生に言われましたが、教授に話を持ちかけることが難しく、相談できずにいました。



とうとう限界が____


そんなこんなで気付けば卒研審査会の3日前になり、ゼミの時間にリハーサルをしていた時でした。

なんとか用意した資料で本番のように発表し、教授からフィードバックを受け、席に着いて次の人の発表が始まった瞬間。

私はボロボロ泣いていました。

今まで辛くてしんどいのを我慢しながら作った資料にはかなり修正箇所があると教授に指摘され、もう放心状態でした。

別に悲しかったわけじゃない。悔しかったのかもわからない。

ただただギリギリで走り続けてきてギリギリで保っていた何かが崩壊したように、涙が止まらなくなったのです。

ゼミの何人かはそんな私の異常事態に気が付いたのか、かなり驚いていたと思います。
涙を止めたくても当たり前のように自分の意思では止まらなかったため、小走りで退出しました。

どうしてもどうしても涙が止まらなくて、過呼吸のような状態。

もう頑張れない。頑張れない。私もう無理。頑張れない走り続けられない。休みたい。


リハーサルが終わってからも涙は止まってくれなくて、帰れなくて、しばらく大学に残っていました。

帰りの電車の中でも帰ってからも涙は留まることを知らず、泣きすぎた故の頭痛に襲われました。


次の日

大学に行けませんでした。
行ける気がしなくて、前日の時点でゼミのメンバーには明日いけないかも、とは言っていましたが

まさか本当に行けなくなるとは。

身体が一切言う事を聞かず、動かない。
起き上がれない。

死んだように眠り、なんとか夕方からでも資料を修正しようとパソコンを開こうとするも、やっぱり限界で限界で限界で、開こうとすればするほど涙が勝手に出てきて結局パソコンを開くことは出来ませんでした。

丸一日死んだように、病人のように寝たきり。

前日死ぬほど泣いたからか頭が痛くて、でもまた今日もずっと涙が止まらなくてまた頭が痛くて、何も出来ない。食欲もない。
ただただしんどいとしか思えなくて、一日中横たわっていました。

あっという間に一日終わっちゃった。

頭の中では卒研やらなきゃやらなきゃって焦っているはずなのに、身体がとにかく動きませんでした。

審査会まであと2日なのに。

明日こそやらなきゃ、と思ったら心が休まることはありませんでした。



1日中寝たきりだった次の日は、這いつくばるように大学に行きました。

今日やらないと、審査会を迎えられないから。
今日頑張れば、審査会を迎えるだけ。終わったら夏休み。

それだけを考えながら脳死で作業をしていた記憶があります。

午後からなんとか大学に顔を出せて、ゼミのメンバーとしんどいねーと言いつつ、妥協で修正を終わらせて早々に帰宅。

実は、リフレッシュの為にも少し身体を動かしたいなと思って前期は体育のバレーボールの授業を取っていたのですが、毎週毎週楽しみにしていたバレーボールが7月に入ってからはとうとう楽しみだとも思えなくて、2週連続で欠席しました。

体育の授業は午前中の為、午後になってからやっと大学に行けたこの日ももちろん体育には行けず。

単位なんてどうでもいい。
明日の審査会をとにかく乗り越えよう、としか考えられませんでした。



なんとか乗り切った審査会

初めての卒研審査会で緊張はしていましたが、これが終わったら夏休みだと思うと、辛い辛いしんどい!みたいなのは感じていなかったと思います。

とにかく乗り切りたい、この一心でした。

無事に発表も終わり、審査をする教授からは色々指摘されましたが、発表が終わったことの方が大きかった為そんなことはどうでもいいのです。

ここまでよく頑張った自分。

でも、審査会が終わってもなんだかスッキリすることはありませんでした。

心はモヤモヤ。

10月3週目に控える審査会のために夏休みも作業するように、と言われたからだと思います。

夏休みにどの程度作業を進めるのか簡単にスケジュールを決めて、大学生最後の夏休みに突入しました。



8月、夏休みでも心は休まらない

夏休みに入るも、パソコンを開こうとする手がなかなか言うことを聞かず、締切を設定していた統計も全く手付かずのまま。

流石にやらないと…

と思うも、結局自分で組んだスケジュールは最初から崩壊していました。

卒研をやらなきゃいけないのはわかってるし、やるべきことも明確化されて理解しているはずなのに、イマイチ頭の中で言葉の意味が消化出来なくて手がつけられない。

何回会議を重ねても研究の目的や意義、仮説がぼんやりとしか理解できなくて、教授と大学院生の言葉が頭の中に入ってこない。

"自分の研究の内容を他人に説明できない"

こんな自分が受け入れられませんでした。

やろうと思えば思うほど苦しくなって結局やらずに一日が終わります。
でも焦りは勿論増える一方。

卒研をやってない時間も卒研のことが頭の片隅にあって常に焦燥感に駆られる。
どうしたらスムーズに手をつけることができるんだろう…。

何をどうしたらいいかも分からず自分じゃどうにもならなくて、7月末から8月にかけて精神科の予約画面とずっと睨めっこしていました。

この状態に何か診断名がつくのか?
ネットで調べた情報を鵜呑みにしてはいけないけれど、もしかしたら適応障害なのか?

色々考えました。

もし病院に行って、しんどいのは皆同じだと言われたらどうしよう。
ただの怠惰な健常者なのかもしれない。
大袈裟に捉えているだけかも。

でも。正直身体も心もボロボロでした。
何も楽しめない日々が続いて、疲れ切っている毎日がしんどくて辛くて。

そんな時に、いつも通り精神科の予約画面と睨めっこしていたら、奇跡的に新規患者の受付枠が空いたのです。

もう行くしかない、ここで行かなかったらいつか後悔する、と自分の心の中と葛藤を繰り返し、藁にもすがる思いで精神科を予約しました。


適応障害でした。


8月30日
はじめての精神科受診。

ボロボロだった私は、もう何を言われてもいい、自分が怠惰なら怠惰な健常者というレッテルを受け入れる覚悟で病院に向かいました。


問診票を記入し、今までの経緯や症状などを伝え、
先生が発した言葉_______


「さくらさんは、適応障害ですね。」


ああ、適応障害だったのか。
そっか、適応障害なのか。

聞いた瞬間、色々な感情が混ざり安心した気持ちが半分、自分のありのままの症状を話して簡単に適応障害だと診断されたことに疑いの気持ちが半分。

なんとも言えない気持ちでした。

こんなに簡単に病人になるのか?
本当に自分が適応障害なのか?

自分から藁にもすがる思いで精神科を受診したくせに。半分疑いの目を向けるなんて。

しばらく卒業研究はお休みしてくださいと言われ、診断書も書いてもらいました。

変な気分です。

でも、これで卒業研究から離れられる…。
そう思ったら涙が出て来ました。


帰ってすぐに教授と大学院生に連絡をし、初めて自分の症状を打ち明け、診断書の写真も送って、
「しばらくお休みさせてください」と。

そうして、私は適応障害と向き合うことになったのです。







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