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第八十三話「人生をぶらついて、うろちょろさんまで」 2025年2月2日土曜日 雨

 予報は雪だった。三日前からJRは積雪による遅延・運休を警告していたが、蓋を開けてみれば朝からの雨。少々肩透かしだが、東京の積雪は都市機能を麻痺させる。何もなくて良かった。
 今日は、『うろちょろ』さんへ行く。先日の『LOOP』さんでのワイン会(※第八十話参照)で参加者の方のおすすめの店だった。実は、一年ほど前にN美さんと訪れていた。
 コーヒーと昼酒のお店。コーヒーはネルドリップ。瓶ビールやホッピー、ハイボールの他に、ナチュールワイン。つまみは小皿で提供される定番の居酒屋メニュー。丸椅子が四脚。奥に小さなテーブルが一つ。立ち飲みもできるようだ。
 木材を基調とした内装と店主の男性ーー梅津さんの柔らかい接客が、温かい空気感を作っている。
 憧れのお店でもある。
 そして、羨ましくもある。
 いつかこんな店を、と思うが私の今の経済力と老親、人生の残り時間を思うと実現できそうにない。
 憧憬。羨望。ある意味、嫉妬もか。苦味のある感情も、この年齢になると乙なつまみなのである。けして自虐ではない。素直にそう思う。
 瓶ビールの小瓶を頼んだ。小さな小さなビアタンブラーに手酌で注ぐ。一回、二回、三回。細かく分けて注ぐと泡がきめ細かくできる。この泡がビールに蓋をし、美味しさが長持ちする。
 小さなカウンターには先客がいらっしゃる。常連さんだろう。梅津さんと談笑している。邪魔をしないように、そしてこの空気に馴染むようにビールを飲む。
 小瓶を干した頃、私は店の空気に溶け込めたらしい。梅津さん、常連さんから声をかけてくださり、世間話をする。その流れでホッピー白セットとお惣菜の盛り合わせを頼む。カクテキ、ほうれん草の和え物、糠漬けの盛り合わせ。ちょうどいいつまみだ。
 梅津さん、常連さん、私。三角形で取り止めのない飲み屋トーク。
 ホッピーの後は、ポテサラにナチュールの白ワインを合わせた。舌触りの滑らかなポテサラにキャベツがアクセントになっている。ナチュールのコクが意外と合う。
 最後は酔い覚ましにネルドリップのコーヒーを飲んだ。ネルドリップはペーパードリップに比べやや粘性を持つ液体となる。ゆっくりと布を通るため、その分温度は低くなるがそれが柔らかさとなる。結果、優しい味わいになることが多い。この店にぴったりだ。
 ああ、幸せだ。
 私の人生はぶらついていたばかりだ。何も残せていない。これからも何も残せないだろう。
 しかし、そのぶらつきがなければ、N美さんにも、『うろちょろ』さんにも出会わなかった。
 この柔らかなネルドリップ・コーヒーにも。
 勘定を済ませると、雨は止んでいた。
 我が家まで、またぶらついて帰ろう。
 もしかしたら、またいい出会いがあるかもしれない。



『うろちょろ』さん
許可をいただきましたので、Instagramをリンクさせていただきます。
ゆっくりと温かい時間が流れるお店です。
お近くの方はぜひ。

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