弱さ
久しぶりに心に余裕ができたから、
通学中に書き上げたお話を少しだけ。しゃけ🐟
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もうすぐ、夏がやってくる。
ここ数日の雨で潤いを持った地面は渋いような苦いような、なんとも言えない雨の日の匂いを放っていた。心の中にまで厚い雲が覆っていく、気持ちの悪い感覚がした。
せっかちな悠太は、ちょっと前のカラッと晴れたあの日からベランダの洗濯竿に風鈴を飾っていた。まだ梅雨のど真ん中だと言うのに早々に飾られてしまった風鈴は、雨に打たれる度にチリン。チリン。とどこか寂しい音を響かせながら小さく揺れていた。
私が悠太とここで暮らし始めたのは、今年の1月だった。今年は年明け早々に喧嘩したから、ふて寝の寝正月だったし、行きたかった初詣もおみくじもできなかった。そのおかげで、私の曲がったおへそは暫く戻ってこなかった。でも、悠太が仲直りにこの家の鍵をくれた時には、それはまさにもう一瞬でおへそが帰ってきたんだっけ。
ここで悠太と一緒に暮らし始めてから、皿洗いの時に毎回きちんとゴム手袋をつける彼の几帳面さや、仕事に疲労困憊して管理出来なくなったなんとも言えない表情や、私の作ったご飯を両頬に詰め込んで嬉しそうにする可愛いところを、身近で見られるようになった。それは全て愛おしくて、出来ることなら余すことなく自分の要素にしてしまいたいくらい彼の全部が大好きで、独り占めしたいと思った。
彼とはよくこの世界の真理や、恋愛の定義や、人の抱く感情とそれに纏わる多様な理解についてなんかを話すことが多かった。大学時代は2人とも哲学とか、心理学とかそういう専攻じゃなかったけど、2人で共有する解釈には2人だけの世界観が詰め込まれている気がして、これもまた堪らなく愛しかった。
そしていつの日か、彼は私にこう聞いてきた。
『紗枝はさ、傷はどうして出来ると思う?』
私は「傷ついたら出来るんじゃない?」って答えた。
そしたら今度は、
『じゃあなんで傷って痛々しいんだと思う?』
って聞いてきた。
「それは傷だもん、また出来ないように、また作らないように、痛々しくなった体を大切にしようと思えるようにできるんだと思うよ」って答えた。
『そっか、たしかにそうかもね。』
神妙で納得のいってないような顔つきのまま共感の言葉を吐くもんだから、モヤモヤして悠太にも聞き返してみた。
「悠太はどう考えるの?」
『傷は弱いからできるんだと思う。弱い子を見るのは痛々しいから、傷は痛々しいんだと思う。本当のところ傷って弱い証拠なんじゃないかな。体も、心も。』
「たしかにそうかもしれないよ、人間の体は弱い。刃物ひとつ立てれば真っ赤な血が溢れてくるし、ちょっとの摩擦でヒリヒリする。だけど弱いから出来るんじゃあさ、その傷の意味はどこにあるの?私は、意味を持たない傷なんて嫌だな。どうせ痛い思いをするんだから、見た目も痛々しくていい。自分で自分の体を心配して、周りの人にもいたわってほしい。傷すら、愛して欲しいよ。それがどれだけ痛々しくてもね。」
『そっか、そうかもね。』
さっきとほぼ同じ言葉の羅列で共感を示してきた悠太は、どこか寂しそうな顔をしていた。気がした。
「悠太は、弱いことが悪なの?」
『悪だね。弱くなきゃ、傷なんてできない。傷ができるとさ、自分が弱いことを痛感するんだよ。例えばそうだな、本当に欲しいものがあったとして、そこには絶対辿り着けなくて、でも一見手の届きそうなところにあって。でも何度チャレンジしても無理なんだよ、そんな時に味わうもどかしさと、自己嫌悪と諦めとイライラと。それと同じ感じがする。紗枝は、どう思う?弱いことは悪じゃない?』
「悪じゃないよ、もちろん。弱さに気づけるから自分を大切にできる。そういう一種の警告というか、センサーというか。弱さにはそんな役割があるんじゃないかなって思うよ。それを見える形にしたのが、きっと傷なんだと思う。」
『センサー、か。いらない警告だよな。』
悠太はぼそっと呟いた。
悠太の体にはいくつもの傷がある。きっとすごく気にしていて、考えていて、辛いんだと思う。裕太の傷は、裕太自身がストレスで増やしてしまう引っ掻き傷。癖になって一向に減らないその傷は、蒸し暑い夏を目前にして一段と範囲を広げていた。裸になると目立つその赤い傷が、彼にとっては弱さの証拠で、みっともなくて隠したくて仕方がないんだと思った。
そんな風に今日のこの議論を解釈したりした。
あれから数ヶ月経った。秋になって涼しくなってからの裕太の体は、見る機会がなくなっていた。裕太の弱さは私の見えないものになってしまっていた。いつの日かの年明けのような喧嘩をして、話し合いの末、同棲をやめることにしたからだ。気づけば月日が経って連絡は来なくなったし、これが所謂自然消滅かと思い知らされた。
なんで喧嘩したかなんて、覚えてないくらい些細なことだったと思う。悠太の怒りは悲しみを帯びていて、ヒステリックとさえも言える言動を見ていたら、なんだか諦めがついてしまった。こんな裕太を好きになったつもりは無かったから。
それから暫くして、彼を何度か街中で見かけることがあった。
彼は広くて大きな背中の割に、現代っ子らしい小さな顔がちょっと不格好で可愛げがあった。それに、どこからか醸し出される犬みたいな雰囲気がなんとも魅力的な人だった。大好きだったはずの彼の背中は簡単に忘れられるものじゃなかった。
その日も、駅で彼を見かけた。
彼の隣には手を繋いでる人がいた。あんなに魅力的なんだもん、当たり前だよねって納得した。でも、繋いだ手の先にいる人を目で追ってから少しだけびっくりしてしまった。その人が、男の人だったから。
びっくりしたのと同時に、私じゃあげられないものがあったんだなあと思ったし、
私が彼を諦めたことは彼の為にも私の為にも間違いじゃなかったんだなと思った。
彼の弱さは、今どうなってるんだろうか。
私じゃ癒せなかったあの傷は、隣の彼が代わりに癒してあげられてるだろうか。
そんなことを考えながら、今日も体を掻いている。
だって、私は弱いから。