さんぽセル事件から「社会」について考える
どうも、ryoseiです。
久しぶりの投稿です。
最近大学の勉強が激しさを増し、ついていくのが必死です(´;ω;`)
結構壮大なタイトルを付けましたが、短時間で書き上げたいこともあって短めです!悪しからず。
さて、早速本題に入っていこう。
昨日スマホをいじっていたら、何やらTwitterのトレンドに「さんぽセル」の文字が。
確か最近小学生が発明したとか言われてるものだよな~と思いながらツイートを見てみると、
「大人が色々と批判をしたが、小学生が筋の通った反論で返り討ちにしている」
という内容のニュース記事が話題になっていたようだ。
私も思うことがあったので、このネタを擦らせてもらおうと思う。
結論から言うと、私はこの発明を素直に尊敬するし、普及するに値する商品だと思っている。
確かに大人の批判の中には的を得ているものもあるかもしれない。
だがもしさんぽセルに欠点があったとしても、それに関しては引き続き改良を重ねていけばいいだけの話。熱くなる必要はない。
私がこの記事で語りたいのは、的外れな批判(というかケチ)について。
「自分が味わった苦労を下の世代も味わないと気が済まない」という嫉妬心からくる否定だ。
人間である以上、そういう感情を持つことも仕方がないとは思う。
ズルい・羨ましいという感情から、自分たちの苦労を正当化しようとする防衛反応は誰しもやってしまいがちである。
私もいずれ気をつけなければならない年齢になるだろう。
ここで百歩譲って「さんぽセル」を否定したケチな大人の批判を受け入れたとしても、そこには大人たちの大きな見落としが一つあるように思う。
それは小学生たちは「苦労すること」ではなく、「努力や工夫をすること」を選んだという事実だ。
それを「楽をした」という表面上の印象で否定するのは思慮が足りていないように私は思う。
「負担を軽減するための努力や工夫をしないこと」は、言い換えれば「楽をするための苦労から逃げている」と言うことである。
小学生たちは楽をすることを許されたのではなく、楽をする権利を獲得したのである。
素直に尊敬してよいのではないだろうか。
もちろん、小学生の意見を聞いて開発に協力した大人の方も尊敬する。
ちなみに、私は別に「ランドセルを無くした方がいい」とか「さんぽセルが主流になるべき」とかは何も思っていない。
わざわざ二項対立にするのではなくて、新しい選択肢として受け入れていったらいいんじゃないかな~、くらいだ。
さてこれ以上書くことはないので結論に入ろうと思う。
今回私が言いたいのは、「楽をするための努力や工夫を評価していこう」ということだ。
私も下の世代が楽に生きているように見えたらきっと嫉妬して意地悪したくなる時が来るのかもしれないので気を付けておきたい。
「皆で足並みを揃えて苦労しましょうね」という社会よりも、
「おこぼれを与え合って皆でどんどん生きやすくしていきましょうね」という社会の方がきっと豊かで幸せな社会だろう。
今回のさんぽセル論争を知ってそんな感じのこと思った。
今日の記事はここまでです!
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それではまた別の記事でお会いしましょう。