生活と祈り
顔も知らない誰かが、今日もどこかで生きている。
ただそう感じる時、幸福感のような、安心感のような、不思議なあたたかい気持ちに包み込まれる。
そして、美しい景色を見たとき、心が満たされたとき、ふと、知らない土地に住む、顔も知らないあなたが、今日も穏やかな一日を過ごせますようにという祈りのような気持ちがどこからともなく生まれてくる。
イベントの下見で友人について行った早朝5時半の王子ヶ岳。
山頂に着いた頃には少しずつ夜が明け始めていた。
この山は少し不思議で、周りの山とは違い、剥き出しになった巨大な岩が所々突き出している。
瀬戸内海に向かって剥き出しになった岩に腰掛けて、少しずつ明るくなっていく空と海を見つめる。
真っ黒だった海が、少しずつ明るさを帯びて、赤紫色になっていく。
帆を張った小さな漁船がすーっと白い波を引いて進んでいくのに目が止まった。
そして目線を、少しずつ山間から生まれてくる太陽へと移した時、今この瞬間に、世界のどこかで太陽が沈み、眠りにつく人たちもいるのかとふと思った。
山の麓の道を行く車も、白い尾をひいて進んでゆく漁船も、対岸の工場や家の光も、そこに顔も知らない誰かの生活があることを教えてくれる。
自分と関係の無い人たちが生きていることなんて、当たり前だけど、なぜか、知らない誰かがどこかで息をしていることが幸せで。ただただ彼らの一日が穏やかでありますようにという気持ちが溢れてくる。
この感覚に包まれるのは初めてではなかった。
バンコクから帰る飛行機から赤みを帯びた街灯が照らす街を見た時、心を揺さぶられるものがあった。
人工的な光にあまり感動しないので、イルミネーションや夜景に全く感動しないタチなのだが、バンコクのあたたかな光は、顔も知らない誰かの暮らしがそこにあること、人々が息づいていることを教えてくれた。
昼間に街で出会った人々の生活が頭をよぎる。
露店の店主にも、募金を募っていたあの人にも、食堂のあの人にも、観光客にも、愛する人がいて、ご飯を食べ、眠りに就く家がある。それぞれの、ありふれた、何でもない日常がある。
非日常的な8ヶ月の旅を終え、これから私は日本に帰り、自分の生活に戻ってゆく。そんな中、変わらず毎日の生活を営む人々がいる。
当たり前のことなのに、私にはそのことが美しくて、愛おしくて、奇跡のように思えて、飛行機の中で一人涙を流した。
何か心地良い風が吹いている。
海から来た風が山をなぞって体まで届いてくるような気がする。
無いことではなく、あるものに、自分が今持っているものに目を向けよう。そしてそれにちゃんと感謝しよう。そう思った。
カメラも携帯も持っていたけれど、電子機器を触りたくなくて写真も動画も一枚も撮らなかった。
ただただ、今この場所で、息をしていることへの幸福感でいっぱいで、涙が止まらなかった。
友人の待つ山頂のレストハウスに戻ると、コーヒーとホットサンドを作ってくれていた。
ブラックペッパーがアクセントの卵のホットサンドを3人で頬張り、コーヒーを飲みながら、お互いどんな時間を過ごして、何を感じたのか話した。
自分の番になって話そうとした時、また心がいっぱいになってしまって涙が溢れてしまった。
ただただ、幸せ過ぎて、心があったかくなって、満たされて、心が震えるから、涙が出てきてしまう。
今自分が当たり前に手にしていることは、当たり前ではない。
行きたい世界があるからこそ、無いものばかりに目が行ってどうしようもなく不安になったり、焦ってしまうことがある。
けれど、実際自分はすでに十分なぐらい満たされて生きている。
それはいつも支えてくれる人たちがいることだとか、毎日3食ご飯を食べられることだとか、日が落ちる時間帯にぼーっと毎日夕日を眺めることだとか。
しんどくなった時、辛くなった時、孤独を感じる時、もしかしたらこうやってどこかの誰かが祈ってくれているのかもしれない。
今あるものたちを連れて、じっくりゆっくり歩いていこう。
そんな気持ちに包まれたあたたかな朝の話。
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