気になる日本語~誤植編~
タイピングにおける変換ミスは、誰しも経験があるだろう。ミスがないに越したことはないけれど、少なからずわたしもミスしてしまうことがあるので、それをとやかく言いたいわけではない。
では何が言いたいかというと、このごろ、変換の前段階ですでに間違っている表記を、頻繁に見かけるように思うのだ。
「永遠と」←延々と では?
「定員さん」←店員さん では??
文頭の「通りで」←道理で では???
これらは、そもそも読み仮名が異なる。
えいえん えんえん
ていいん てんいん
どおりで どうりで
正しい読みを打った上で変換時に漢字を間違えるならともかく、わたしにはこの誤りが理解できなかった。小学生からやり直して、「正しいほうにまるをつけなさい。おおじさま・おうじさま」みたいなテストを受けるべきなんじゃないだろうか。
なんでなんだろうな~、書き言葉より話し言葉が優位な世の中になってきて、話している風に打ってしまう(てんいんさんってハッキリ発音している人は少ないと思う、滑舌を意識せずに気を抜いて喋っていると、てーいんさん、とかになりがち)ってことなのかな~
と前々から疑問に感じていたが、もしかして原因のひとつに音声入力があるのでは!?と閃いた。
自分で文字を打って変換しているのではなく、人間が喋ったものを機械が文字として打ち出している…そう考えれば、合点がいく。
音声入力であっても、喋った内容が正しく打ち込まれているかどうか、確認はするだろう。でも、その確認は甘くなりがちだと思うし、「それっぽい」ものが打ち込まれていればなおさら見落とす確率は上がる。
その証拠(?)に、「ふいんき」という誤植は見かけないのだ。もし、話し言葉優位で自分が話している風に打ち込んでしまう、だから間違える、という理屈であれば、雰囲気をふいんきと打ったものも散見されるはずだ。
「ふいんき」には、「それっぽい変換」がない。今わたしが使っているパソコンでは「府インキ」と出る。「府インキ」あるいは変換されずにひらがなの「ふいんき」などが画面上に表示されていれば、確認の甘い人でも気づきやすいだろう。
一方「定員さん」などは、一見それっぽく、正しいかのように見えてしまうことで、見落としが生じるのではないだろうか。「永遠と」も、言葉のニュアンスだけで言えば、合っているような気がしないでもないからね。
ここまで書いて、わたしは何をとやかく言っているのだろう、と呆れもした。でも、書いたからには公開するつもりのnoteだ。
余談だけれど、「永遠と」は、今回挙げた例の中では比較的古くから散見されるものだと思う。古くと言っても、「これらの誤植のうちに限って相対評価をした場合の古く」に過ぎないのだが。
言葉というものは常に変化するものだそう。つまり、古くからある言葉ほど、使われる期間が伸びるにつれ、変化する可能性も上がる。
この「永遠と」に関しても、まずは助詞が抜け「永遠」、さらに転じて「一生」が使われている文脈に、よく出くわす。例えば、
問:「昨日、何してたの?」
答:「一生ゲームしてた」
など。まるで、この人の人生が昨日で終わったかのようだ。今日のあなたは昨日のあなたとは別の生命体なのだろうか。
これを日本語と呼ばなければならないことが、わたしは悲しい。この用法には、幼い子が発する「一生のお願い」に近いものを感じる。一生というものの実際の重みを度外視し(あるいは理解できておらず)、自らの考えうる範囲で最も効果が見込めそうな言葉を、安易に選ぶ感覚。幼少期は現在志向バイアスが強いので誰でもそんな経験があるだろうが、何も大人になってまで、そうやって言葉を選ぶ必要はないのではないだろうか。
もちろん、こういう言葉遣いをする人ばかりではないけれど、使う人が一定数存在する言葉は、おそらくこれからも広がっていく。使う人が多ければ、いつかはそれが「正解」になる。
そんな日が来るのは、できたらわたしがもっともっと年をとって流行りなど何もわからなくなった頃であってほしい。
七志野さんかく△
お読みいただきありがとうございました。みなさまからのスキやフォロー、シェアなど、とても嬉しいです! いただいたサポートは、わたしもどなたかに贈って、循環させていきたいと思っています。