【エッセイ】水のように形を変えて
以前に「自分にとっての自由とは何か?」について書こうとしたことがある。なぜそんな大それたテーマに挑戦しようとしたかというと、友人からのリクエストがあったからだ。しかし、はっきり言える。大変、苦戦した。
お題は「自分にとっての」自由である。だから哲学書に書かれている自由とかではなく、自分が生きてきたなかで感じ取ってきたこと、それによって、「自由」をどう定義づけることができるかを模索する必要があった。
結果的には、惨敗だった。大量に文章を書いたせいか、冒頭で提示した、書物を通じて自分に埋め込まれた自由観と、書き進めていくなかで徐々に姿を現し始めた自分の経験知としての自由観とにずれが出てきてしまったのだ。そのため、公表せずに下書きのままお蔵入りとした。
しかし、それ以来、いずれも自分のなかに強く存在する「自由」であるから、この2つの自由を統合するような説明が必要であるような気はずっとしていた。
お蔵入りにした記事の前半では、自由とは「自らの意思に基づいて選択、決定し、その決定の結果について自ら責任を負うこと」と定義づけた上で、論を進めていた。にもかかわらず、後半では、自分の経験を振り返っていくなかで、自由とは「自分で自分自身を規定しないこと」、つまり「あるべき自分像の放棄」だと書いていたのだった。
このズレをどう受け止めればいいのだろうか。
後半の「あるべき自分像の放棄」という考え方は、他の私の詩のなかでもときどき出てくるテーマの1つでもある。自分というものはとても多面的であり、1つの「あるべき自分像」にはとてもじゃないが回収しきれない。また、「あるべき自分像」のなかには、おそらく慣習、倫理、他者の期待、そういった他律的ななにかが流れ込みやすい。だから、そうした「あるべき自分像」を放棄することで、真の自由を感じることができる。そういう経験をしたことがある(これについては、前回の記事でも触れた)。今でもその感覚を得たことは、自分の人生のターニングポイントだったと思っている。
それは、環境や状況、人に応じて、自分を柔軟にメタモルフォーゼさせることである。自分を自分たらしてめている確固たる何かを否定することは、ともすれば自己の喪失につながりかねない。しかし、そのような確固たる自分を持つこともまた不自由である。特に、もし高い理想像のようなものを持っていれば、最終的には自己像とのずれに思い悩み、死をも選択しかねない。そういう危険すらあるように思う。
だから、そうしたあちこちに散見される分断された自己を統合する「自我」があれば、1つの統一体として自分を理解することができ、保持することができる。そうした「自我」とは、自分を自分たらしめるものは存在しないが、しかしあれもこれもが自分であるという状態を受け入れる、ということなのだろうか。いまの私にはまだうまく言語化することができない。ひとまずこの様に定義づけておく。
ともかく、こうした状態は、私には非常に「自由」であるように思われる。そして不思議なことに、そうやって生きていると、どこにいても自分は自分であり、仮面を被っているという感覚はすっと消えた。わたしはどこにいても私になった。誰かに本当の自分を理解して欲しいという欲求も小さくなった。彼/彼女の前にいる「私」が「わたし」であるからだ。本当の自分もへったくれもない。
では、前半で示した自由、すなわち「自分で決定し、その決定の結果について自分で責任をとること」と「自己像からの解放」としての自由との関係性は、どう見出せばよいのだろうか。
前者で強調していることは、「自分で決定すること」、つまり自分でなにを選びとり、どのように行動するかを、他者からの影響を受けずに決定し、自らを自分自身でコントロールするということだろう。
そうだとすると、「自分で決定する」というときに、内面において他者の期待なども含まれた「あるべき自己像」に従い決定をしたならば、それは他律的になってしまう。これでは真の自由ではないことになってしまう。
つまり、前半の自由と後半の自由とを統合すると、自由とは、「固定された自己像から解放され、状況や環境に応じて自分自身を『再創造』する柔軟性を持ちながら、他者の期待などに縛られれずに自分自身で選びとった選択や行動の結果を主体的に引き受けること」だと言えそうだ。
そしてその変わっていく様々な自分を楽しむことが自由の醍醐味であり、成長だといえるのかもしれない。だとすると、自己受容や自己肯定とは、自分を許すとか相手を許すとか、自分を好きになるとか、そういうことでなはくて、本質的には「自由であること」だと言えるのかもしれない。
最近、考えていたのは、「煩悩を捨てる」とは、他者への羨望や嫉妬から湧き上がる欲望を捨てることで、結局、「こうありたい自分」を捨てることではないかということだ。そうだとすると、西洋哲学の目指したところと、東洋哲学が目指すところは、案外近いのかもしれない、などと妄想していた。
ちなみに、私はニヒリズムは嫌いじゃない。それは社会を別の視点から捉え、眺め、批判的に考察するのに、避けては通れない道だとも思っている。しかし、ニヒリズムに安住するのはゴメン被りたい。社会がおかしいのだと気づいたら、じゃあそれを前提にどう生きるのか。そこまでをセットにして考えなければ、ただ愚痴をこぼしている子どもに過ぎない。
ニヒリズムはわたしに疑いの目を持たせる。それはわたしが正しいと信じてきたものの存在を疑わせる。それはわたし自身の存在の危うさへとも繋がりかねないだろう。しかし、だからこそ社会の価値観や他者の期待から離れて選択することが重要となってくる。生きるとは、選択の連続だ。私たちはこんなちっぽけな存在ではあるけど、自分の望みに素直になって、柔軟に逞しく生きていく、その主体性が希望のように思う。そしてそれには、自由であることが欠かせない。たとえ自由の代償によって連帯や紐帯を失い、孤独と不安に苛まれたとしても、私たちはすでにそうした社会の中で生きている。それが現実だ。だからこの現実を受け止めて、その先に行かなければ、生きる苦しみは続くように思うのだ。
このエッセイは、現時点での自分にとっての自由についての覚書のようなものだ。2つの自由観の統合はまだ全然うまくいってない。でもある程度、直感的な知に頼るしかない気もしている。厳密に論理的に書き切れるのだろうか?という疑問でもある。そんな能力を自分は持ち合わせていない。それだけでなく、「あ、そうか。そう生きればいいんだ」と腹落ちする、あの感覚。あれは、言葉にならない何かだった。それは気づきによって獲得されるものであって、言葉で説明されるモノではない気がしている。
これから、この覚書のようなエッセイに書いたことが、自分のなかでどう変容していくのか、いかないのか、自分でも楽しみだ。