アイドルと臨床
アイドルにあまり興味はなかったのだが勧められてkpopを見ることに。可愛いし、目を惹かれる。曲が悪いわけではないが、やっぱり「目」を惹かれる。なぜ目が惹かれるのだろうというところから出発して、観客との関係性について書いてみた。
アイドルに限らず、物事を多角的に批判的に見るためには対象の物事について知識がある(1以上)かない(0)かは、非常に重要な点である。知識として知っている知らないは当然のことなのだが、身を置いたことがあるかどうかというのは、対象の志向を想像する上では一つの大きな視点となり得る。これは当事者だけが特権的に発言できるということではなくて、体験者であるからこそ取れる視点があるというだけのことで、非体験者であるから語ってならないということはない。
ただ堅苦しい表現はあまり使わないように意識して進めていきたい。
韓国の「アイドル」
アイドルは今世界的にも大人気だからそれに関する論文もごまんとあって、研究でなくともアーティストとの違いなんかについては多くの人が気になっているところなのではないかと思う。特に日本では音楽の知識があって純粋に製作としてプロの技量を持っている人をミュージシャンと呼んで、それ以外の歌うことに特化した人をアーティストやアイドルと呼ぶことがあるらしい。確かにアイドルにミュージシャンという言葉は馴染みがないが、芸術家としてのアーティストとは意味が違うのに同じ呼び方をする。この点はよく理解できていない。というかそんなに選り分けて考えてなさそう。
日本のアイドルはよく知らないので韓国のアイドルに限って言うが、その境界はさらに曖昧になる。TWICEに至っては基本的に作詞作曲はBlack Eyed PilseungやJ.Y.P自身が主に担っているが、たまにメンバーも作詞に入ったりするし、BIGBANGやBTSなんかは作曲もメンバーが手がけていたりする。どこまで自分たちでやっているかは別として、明確に一人あるいは一団体がやっていないことがあり、混ざり合っているという点は面白い。
アイドル性
ここで提示したいのはアイドルをアイドルたらしめている一つの要素は「視線触発」なのではないかということだ。これだけではないと思うが、臨床との関係を考える一つの道としてここではまずこの一点を提示したい。視線触発は村上靖彦の『自閉症の現象学』から取った。ここでは、視線を受けていると感じることを意味して使っている。
ライブや握手会などではアイドルと観客の関係は一方的とはならないが、量的に比べれば一番接する時間が長いのはメディアを通してであるので、一旦メディアを通しての体験に絞る。メディアといえば、MV、音楽番組、日常を映しているようなVLIVEなどが挙げられるが、彼女・彼たちは必ずカメラ目線を意識する。彼女らの視点に立てば、常にカメラと目を合わせている。事実上彼女らが見ているのは画面でありカメラのレンズであるのだが、そのレンズを見つめることを怠らない。他のアイドルでないミュージシャンの多くはこんなにもカメラを見続けないのではないかと思う。
常に見続けられているカメラは一方でそれを映す先があって、そこにはファンがいる。ファン側からの視点では、映されている対象=アイドルが画面の中から自分の方へと視線を投げかけてくる。ここで眼と眼がかち合う。この瞬間、ファンの側が一方的に視線触発を覚知している。
この点はアイドルの語源にもなった偶像とも共通する部分があるように思える。偶像は神などを象って崇拝するための像だけど、崇拝心だけではなくて出会いの構造が似ている。現代のアイドルはカメラという一点を見ているからファンが一方的に視線を覚知する。古来の偶像も、偶像からの視点ではただ空を見つめているのにも関わらず、それを崇拝する人の方から目を合わせに行くことができる。つまりこちらから出会いに行っているのに出会われていると錯覚することができる。
視線触発
「眼と眼がかち合う」という表現に含まれるのは、まさに生の体験で、眼を合わせられない中で眼が合ったりする瞬間があることだ。相手が不断に関わってくることを内包する表現といえる。視線触発の意味は特にそこにはこだわらずに使いたい。村上も書いているように、例えば手紙や夢の中でも、「誰か」がこちらに語りかけているように感じることとする。
つまり、視線触発を受けるということについては、実際に映像と音声によって語りかけられているのだからそれを受動するだけで成立する。視線触発そのものは臨床に限った表現ではないが、見られ、語りかけられるということが臨床的に作用していることの要因となっていることは妥当であろう。
臨床を取りちがえる
臨床とは簡単に言えば現場で起こる生々しさに直面することが一つの意義なんじゃないかと思う。つまり、目の前にそのものと対峙する状況にある。対峙するというのは、「眼と眼がかち合う」体験をすることが含まれる。
オンラインとか何かを媒介したものでは、その媒介しているものの現前ということになるので、意味が変わってくる。にも関わらず、アイドルを見ていると視線触発の体験が訪れる。オンラインであるのに眼と眼が合うから、臨床ではないのに臨床的な経験をする。
この体験は、平易には、「自分を見てくれている」「気にかけてくれる人がいる」という気にもさせているのではないかと思う。特にSNSやファンクラブが主流となっている今は相互関係がビジネス的にも直結していたりする。
しかしそれだけに留まらず、視線触発による他者性の暴力を浴びてもいる。臨床の生々しい場においては、他者との関係は決して対等な主体同士というわけにはいかない。絶えず主体は剥奪されているし(バトラー「ディスポゼッション」)、個人に限った身体というものも存在しない(メルロ=ポンティ「間身体性」)。視線触発はそうした暴力の一端であると思う。人から見られるというのは、何気ないし、見られる人にとって関係ないことのように振る舞えるほどのことのように思えるけど、意識のみならず行動を変化させる威力を持っている。
暴力であるからこそ、アイドルとの間には崇拝や育成などの上下関係があり、それを享受することで自由から解放される。こうした体験をもたらす効果が疑似的な臨床にはあるのではないか。
もう少しポジティブな言い方をすれば、他者との出会いを多少なりとも補完してくれる存在でもある。やたらと応援し合う関係性を持ち出しているアイドルが多いように思うが、応援というのはつまり後ろに立っていて、一人ではないことを感じさせる行為でもある。それは応援する側も同じだ。
しかしやはり「疑似的」であることは忘れてはならない。疑似的に他者性を感じること、疑似的に応援し合うこと。たかが疑似、されど疑似…。
視線の認知
付論として、ここからは少し自然科学寄りの話も差し込みたい。
最近、以下のような研究が出た。脳神経科学において、見つめ合う二人の脳がシンクロしているというもの。
他者間で同調が起こることは散々指摘されてきた。例えば、引き込み効果(エントレインメント )で例としてよく出てくるのは、マラソンのランナー同士が歩調を合わせてしまうので並走しないようにすること。ここでは身体の動作が媒介となって、複数人が同じリズムを共有するようになることについて語られている。動作だけでなく、会話をすることが同様の効果を生むことも有名な話だと思う。
同調というのは、親交の証でもある。過ごす時間が長ければ同調は深まっていき、文字通り身体を分有することになるから、存在として近しいものになっていくので、人類にとって重要な役割を果たしてきた。
しかし今回の研究は、「見つめ合うだけ」で、つまり動作を見てもいない中でリズムが合うということだ。
アイコンタクトを取ることはコミュニケーションを図る上で重要な要素であることは言うまでもない。オンラインの会議が当たり前になった今、ZOOMでは目が合う可能性がほぼないことが不満の一つともなっている。(逆に困難に思う人もいる)
カメラに視線を合わせる時間が長いアイドル達を、ファンもその分だけ見つめることになる。もし、画面を通しても同調的なことが起こっているのだとすれば、ファンはアイドルに対して同調していると錯覚し、アイドルはそれを感じないということがあり得る。(感じていればの話だが)
人と人の距離を縮める作用のある同調が、カメラ越しの視線を感じることでも起こっているのだとすれば、認知科学的な根拠をここに与えることができるだろうと思う。それに、「歌って」「踊る」という、同調の代表格とも言える動作と音声付きなので、総合的に見ても臨床的であることが存在効果の一つなのだろうと思う。