ファッションの購買と評価

悲しさのわだかまりがあると文章を書きたくなる。今の自分では抱えきれないものについて、書く行為によって新たな枠組みを作るからだと思う。抱えきれないものというのは大抵の場合日常の出来事を皮切りに起こるけど、結局社会動向がどうこうという話になっている。

たぶんそれは、枠組みが常に個人ではなく社会との連関であるからだろう。今回もそれだろうけど、その日常の出来事についてここではまず書いていく。

デザイナーと観客

先日kotohayokozawaのサンプルセールに遊びに行って、いつも通りあんまり買う意識はなかったけど一着買った。元々服を見ることはそれなりにあるけど、買う頻度は比較的低い。特にウィメンズが主ということもあって、展示会には行かせてもらってもなおさら買うことがない。だから今回も、他の展示会がてら、服を見ながら話を聞ければ良いな、くらいに思っていた。

自分で作ったものを売ったことはないので、服を発表することの意義はそんなに見えていないのかもしれないが、どういう人がどういう反応をして、作り手と観客や買い手との間にどういう関係があるのかが重要なのだとすれば、買う/買わないだけがコレクションを通した関係性ではないと言える。自分に言い訳をするわけじゃないけど、もともと売り手/買い手という関係性ではなかったということもあって、なおさら買う/買わないということを意識することも少なかった。

「サンプル」の倒錯性

今回この問題を考えるに至ったのは、このサンプルセールで一着買った時に、悲しさのわだかまりのようなものが尾を引いたからだ。それはなぜか?

サンプルセールとは、製品を工業的に展開する前段階で見本=sampleとして生産される一着を安く売ることを指す。ルックや雑誌の撮影に使われることもある。つまり、量産が前提であるプレタポルテの世界において唯一、「唯一のもの」という記号が担保されて存在しているものを手離す作業といえる。(唯一というのは、量産される製品の中における話で、最初から一点物として作られたものではない)

デザイナーからすれば、利益がちゃんと出るのは量産された方なので、サンプルセールよりも正規で買ってもらった方が当然都合が良いし、そもそも「コレクションを通した関係性」とはそれを前提にしている。鮮度が高く足が早いファッションにとって、展示会で受注する流れというのは、デザイナーによってデザインされたその時代の人間性と向き合う上で理に適った日程の構成なのだと思う(いつ届くかとかについてはまた別の問題があるようにも思う)。
なぜなら、その"時"のデザイナーの感覚と、その"時"の観客の感覚が出会う必要があるからだ。
もちろん誤読の自由はあり、その時にデザイナーの意向に従順になれば良いのではない。それこそ自分の装いを表現するファッションに反する行為とも言える。そうではなく、特定の時代にそのコレクションが存在することに意味があるのであって、それを手に取った時の”感じ”を汲み取る必要はある。

だから、サンプルセールでだけ購入するのは邪道とも言える。これは暗黙どころかみんな普通にわかっていることだと思う。

工業時代における無機質さの代償

しかし、ただのセールにはない欲望をサンプルは引き出す。それは前述の唯一性という記号。しかもただの唯一性ではなく、よりデザイナーの手に近いものであることの唯一性。レア感が漂ってしまう。
工業化によって量産されることで、そのプロセス自体に無機質な”感じ”が社会的に生まれてしまった中で、顔の見える人の手が作ったものが今もなお特別な価値を持つようになっている。サンプルはデザイナーが手で作るわけではないが、量産品に比べれば比較的距離感が近く、なおかつ唯一性が担保されているので、サンプルならではの価値を帯びてしまう。

この、邪道だと思いつつも購入する価値が出てきてしまう、倒錯した欲望は、脱魔術化の時代に魔術的なものを求めることと通ずるが、このことがファッションの購入にどのような示唆を与えるか。

ファッションの評価

ファッションの評価には二軸ある。あるいはそれ以上。とりあえず一つではない。

一つは、美的観点によるコレクションの評価。これは一般的にファッション批評などの対象となる、ファッションにとって最重要部分だろう。コレクションをデザインする実力が問われる。

もう一つは、購入による服の評価。経済界でビジネス的な成功はよく話題にされるし、過去に有名デザイナー(マクイーンとかガリアーノだったか?)の卒コレが買われたという話もある。そうしたマクロな視点や特段"評価"されたものが知られることはたまにあるが、コレクションを通した関係性という観点ではあまり考えられていないように思われる。
これはファッション文脈におけるコレクションの完成度が関連することもあるが、別軸の場合が多いので切り分ける。
今回は後者の購入による服の評価が問題となる。

どのような美か?

ファッションの評価軸を二つに分けたところで出てくる疑問は、どちらも結局は美的観点によるという点についてだ。
購入による評価も、基本的には美的観点で"良い"とされたアイテムを購入するのである。

しかしそれぞれが基づく美が異なる。
前者、つまりコレクションへの評価に対する美は、評価主体に対して対象物であるから、異化的な美だが、後者、つまりアイテムの購入による評価の美は、自分が着ることを前提とするので、同化的な美である。

この異化的な美と同化的な美は対照的だ。
コレクションにおいてはしばしば観客との間に極度のズレが生じて評価されることがあるが、アイテムの購入においては自分がブランドの一部になる。あるいはブランドを自分の一部とする。
だからある特定のブランド購入者はしばしば、コレクションを観ているだけでは現れない宗教性を帯びることがある。

ブランド購入にはこうした同化的美による評価が含まれているのであり、そこに正統性が発生する。しかしサンプルセールではそれがはっきり効果を示さない。なぜなら信心深くならないからだ。信じているのならそれ相応の儀式--展示会で受注する、正規店舗で購入する--過程を踏まねばならない。
この中途半端さが倒錯的な欲望を生み、曖昧な評価を下すことになる。善悪がそこに決められているわけではないが、ファッションにおける評価というのはもう少し考えられていても良いと思う。

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