150. 一万日
一万日を迎えた。心も体もさほど上等ではないため、実のところ次の一万日を健やかに迎えられる自信があまりない。ここがおおよそ折り返し地点だと思うことにしている。早死にも長生きもしたくない。いつだって誰だって概ねそうだと思う。
小学生くらいの頃からだろうか、妙な癖がついた。数ヶ月前、あるいは数年前の自分が急にすとんと空から降ってきて、今現在の自分を押し出してこの体に入り込む想像をする。どんなだろう。喜ぶだろうか、悔しがるだろうか。なぁんだ、そんなものか、と失望するだろうか。この癖はアラサーになった今でも続いていた。突如降ってきた私は、概ね満足していたと思う。
どうにか食い扶持を稼いで雨風をしのぎ、不自由をせず、親友と呼べる人が幾人かいて、時々会いに来てくれる。両親は変わらず元気がないものの健在。自分は健康とは言えないが、日々の痛みはギリギリ便所で神様に祈らずに済む程度におさまっている。職場の人間関係もなかなか悪くない。明け方には相変わらずうなされて叫び声をあげている。それでも夜はどうにか眠れている。数年先のことが考えられる。ああずいぶん良くなった。ありがたいですね。皮肉でも何でもなく、本当にありがたい。
過ぎ去る一万日をどう見送るべきか、いやでも考えさせられた。プレ晩年とも呼ぶべき体験ができた気がする。心残り?何かあったっけ、と考えて、唯一ふるさとと呼べる北海道(5年間しか住まなかったが)に15年ぶりに降り立ち、実家も家族もないエア帰省を果たし、15年ぶりの旧友と会えた。登ったことのない高さの山に一人びくびくしながら登った。気になる芸術作品を片っ端から見に行った。それ以外にもやりたいことをうんと考えたが、本当に、特段無かった。無いものは無い。受け入れるほかない。ささやかな欲求を満たすための動作は日常に吸い込まれ、あまり痕跡を残さない(硬めの桃を農家さんから箱買いして食べた。これはかなり良くて、来年の夏を強く意識することができた)。
生きていても、することがない。これを悪いことだとは思わない。資本主義の次に来る世界を論じるのなら、自己実現の次に来る未来を前向きに考えたっていい。それが一般に晩年と呼ばれるものだったとしても。意味やら意義やらを取っ払って、幼子と老人の間の大きな空白の中に自分はいる。あの門をくぐるには何を捨てて、何を持っていけるのだろう。「こころざし」は500円分、地獄に持って行けますか。
とりあえず人目に触れれば気まずい思いをするものを、片っ端から処分した。それから、十年分以上の写真。やっぱりどの年もそれなりに幸福だったけれど、どの年にも戻りたくはない。今の自分が、過去の自分の中にすとんと落ちていったなら、きっとうんざりするだろう。ある意味喜ばしいことだった。それでも、もしこの後にきっかり一万日が残っていて、大事な人たちに等分して分け与えられるなら、少し迷って、たぶん差し出してしまうだろう。悪くなかった、もう結構。あとは皆さんで楽しくやってください。そんな風に穏やかに片付けられたらな、と思ってしまう。
平均より能力が低いと自分で思ったことはないが、どうにも他人が快く思うことを苦痛に感じ、ごく自然に受け入れられることを受け入れがたく思い、少しの善行にも並々ならぬ忍耐を必要としている気がする。ベビーカーを運ぶ手伝いを申し出て、人の顔の上へ濡れ雑巾を絞る夢を見る。比喩でも誇張でもなく、そのままの意味で。カズオイシグロもハンガンも、フェルメールもバッハも、黒澤もロマンポランスキーも、ただ自分のどこかのシナプスを走り抜けただけだったらしい。何も信じていない割にいつも期待しすぎる。過去に出会った人たちに、自分は何かできただろうか。
ふと思い出して、願掛けるみたいに夏の盛りに18金の指輪をオーダーし、一万日目の日付を刻印してもらった。貯金を切り崩さずに済み、失くしたらへこむくらいの指輪。何も信じていなくても、こんなに綺麗だとは思わなかった。俗物で本当に良かった。
何も願うことは無いと思った瞬間に、欲が出てきた。どうかこの先、最大限に善良な時の自分で生きていけますように。そして大事な人たちが自分と同じように、それ以上に「悪くなかった」と思える日々を送れますように。
10月は金色の風が吹く。一年で最も好きな美しい季節が過ぎ、陽気な亡霊たちの影に街が賑わう。菫色の空の下には、暖かな光とキャンディーの香り。夏の終わり冬の始まり。窓を大きく開けて、冷たい風の吹き込むままに、また別の一万日を迎え入れる。