見出し画像

森林の思考と砂漠の思考

大学の図書館でふと、「雑草は軽やかに進化する」という本を見つけたので、かりてみた。

「雑草は軽やかに進化する」藤島弘純 築地書館


ツユクサやスイバ、オオバコなどの、ありふれた雑草の染色体解析を基にした内容だが、
至る所に筆者の植物や自然に対する畏敬の念が感じられ、深く入った。

その中で、
「森林の思考と砂漠の思考」という章があった。

日本人の思考
鈴木秀夫は日本人の思考を「森林の思考」、ヨーロッパ人のそれを「砂漠の思考」と表現した。
日本人の感性の豊かさややさしさは、列島を覆う湿潤な気候と四季ごとに変化する田んぼや里山の景観、
森林に覆われ起伏に富んだ国土の地形に負うところが大きい、という。
国土地形の多様さと四季のへんかに富んだ自然が、この国土に生まれ育った人々の心に、豊かな情操と繊細な感性を育んできたのだろう。

「砂漠の思考」とは、合理を優先させ曖昧さを認めない思考だと、鈴木は定義した。
合理は自然科学の世界では不可欠の要素である。しかし、われわれの日常では、合理だけが優先される概念とは限らない。

藤島氏は、
「合理の世界が田んぼを変えた」と語る。

西洋文明が世界に広く浸透することで、合理を至上とする考えが多くの人々の心をとらえていった。

西洋文明が要求する工業型の「大きい農業」は、大型農業機械と大量のエネルギーを必要とする。圃場整備によって農地の生態系は破壊された。

そんな合理の思考は、旧来の「百姓仕事」を「過酷な労働」と表現した。

一方、日本古来からあった「小さい農業」は、生態系を破壊することなく、農地の永続性(循環性)を内包していた。
世界の大農先進国が羨望する、「土地の永続性」すなわち、「農地を使い捨てにしない
」という特質を日本の農業は内包していた。

圃場整備事業によって、日本の農業はアメリカ式の大きな農業に転換し、
昔はどこの田んぼにもいた淡水魚のメダカや、ショウジョウトンボ、ホタル、タガメ、ゲンゴロウなどが多くの地方で姿を消した。
小動物だけでなく、在来種の植物までもが姿を消した。

日本の百姓仕事が無言のうちに連綿と維持しつづけた田んぼの「生物の多様性」は、圃場整備事業によって、ほぼ消滅した。

この過程は、日本の農業が子どもの教育を、換言すれば子どもの感性と情操を育むという目に見えない、しかし大切な田んぼの機能を放棄していく過程でもあった。

ある団体の主催で科学講演会が開かれた。
「科学研究とは、研究者個人の興味の衝動を原点にする」と、演者(自然科学者)の一人は語った。
ほんとうにそれだけでよいのだろうか。
科学への研究倫理が問われる時代になってきた、と思いながら会場を後にした。

先日、ある研究発表を聞く機会があった。
細部まで論理的に考え追求する一方、
全体観が損なわれている感じを覚えた。

生物の多様性という基盤が失われた上に、
人は生きることはできない。

その重みとかけがえのなさを我々は知る必要がある。

虫一匹いない土地に人は住まえないのである。

だからこそ、小さな循環を大切に、とりもどしていく必要がある。

視点はマクロに、行動はミクロに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?