「私はあなたの言動から何の影響も受けることはなかった」という愛の表現をしよう。
他者を真に愛したい人への
他者を苦しめたくない人への
『奇跡講座』的な
処方箋、、、
そう、私への処方箋。
「私の気分や感情は、私が決めている」という事実がある。
私がどの視点から見ているのか?が
私が何を知覚しているのか?の根源であり
唯一の真の原因だ。
「、、、?」ですよね。ここは、難しいところで、一言では言えませんが、
『奇跡講座』的には、
この幻想の世界において(『奇跡講座』は一元論の真理であり、この世界は幻想であり、実在していない、とはっきりと明言しています。一方で、真に実在しているのは、この世界には全く関与していない、神、天国、一体性、愛、キリスト etc... のみだと明言しています)
自我の思考体系を選んで思考して知覚していること
or
聖霊の思考体系を選んで思考し、知覚していること
のどちらかの気持ち、感情を、私たちは、常に知覚しているという前提があります。
「あなたが私に攻撃的なことをしたと思っていたとしても、傷つけてしまったと思っていたとしても、それは、取り返しのつかない罪ではなく、ただのちょっとした間違いですよ」
と、他者に対して赦しの実践を行い、聖霊の思考体系を選び直した今の私には動揺、葛藤がないことを示すことで、
怒ったり、攻撃したり、取引したり、そんなことをもしもあなたが(私の投影として)したとしても、私の心は、あなたからの影響を受けず、平安であることができる、という実践の手本を示すことは、あなたも私も、両方ともを、罪の意識から解放する。
「あなたは何の罪も犯していない、ただ、、、、ちょっと間違った心の選択をしただけ」「その証拠に、私はあなたから何の影響も受けることなく、傷ついていない」という、「あなたは何も悪くない。イノセントなままで、今もなお無罪のままだから、あなたは自分を責める必要がない」という考えを選択する決断を私がすることで、何も起こっていない、ということを証しすることは、本当は、自分自身を、ずっと、永年、檻に入れてきたような感覚から、見えない鎖に繋がれているような感覚から、無罪放免し、自分自身を解き放つことに、なる。
他者を苦しめることは、結果、自分自身も、自責の念で、苦しいことだ。
一方で、他者を罪の意識から解放することに、愛の表現を持って一役かってでるとしたならば、病んで狂っている、私の心が癒される。
この、心というもの自体の概念が、『奇跡講座』でいうところの心と、私たちが普段使っている心というのとでは、全く別のものを表しているので、ここは、詳しく書くと長くなるので、ここまでにする。
が、私自身、「本当に、そんなことがあるの?」と思ってきたのだけれど、コツコツと、学習を続けて、実践していくと、実体験からそうなっていっている。
だから、結果、私自身の心が、少しずつ、少しずつ、癒され、軽くなってきていることが、赦しの実践は、私の心に真の幸せ、心の平安、穏やかで静かな知覚、無垢なる知覚をもたらすことになる、というのが、赦しの実践をしてきたことでの、なによりの報酬だと思っている。
ただ、それを意図して実践するのは、確かに、簡単ではないし、とても、難しいことだと思うから、一朝一夕には出来ないし、今も「抵抗」はあるし、赦したくないことも出てくるし、、、
でも、やっぱり、赦した後のこの感覚を一度でも体感したなら、そろそろ、ぼちぼち、赦そうか、、、となってくるのは、時間の問題かと思っている。
自我の思考体系を選んだあなたはこの世界にいないし、あなたは何もしていない、そして、私はこの世界に居ないし、私も何もしていない、と、そう認識することで、全ての罪の意識を忘れて
私たち2人の真のアイデンティティを思い出して
あなたと私の神聖な関係を達成する為に。
私たちは、真の赦しと真の平安を望むと決めることは出来る。