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美の基準

私の母は、「自分が美しい」と
知っている人間である。

昔の写真が出てきては、私に見せ、
「 見て!ママ、昔とても綺麗だったと思わない? 」と自慢げに言う。羨ましいほど、自己肯定感が高い人間だ。

テレビで芸能人を見ては、
今の子は痩せて目が大きいだけで可愛く見えるだとか、昔の自分のほうが綺麗だったとか、口癖のように言い、まるで世間の美の基準が、若かりし頃の母そのものであるかのように話をするのだった。


一方で、
私は、母とは似ても似つかないほど
自己肯定感が低い人間だ。

心の中のぽっかりと欠如してしまった大切なものに、どうしてそうなったのかと、問い続けても答えは帰ってこず。考え続けて、辿りついたのは、根本的な原因は成長過程にあるということである。


そんな話をこれからする。


私の母は、薬剤師で、地頭もよく
外見も、まあ、確かに美しい人だ。

そんな 私の母の育児中ときたら
それはそれはキョーレツだった。
(念の為言っておくが、私は母が好きだ。今となっては、よく一緒に出かける、仲のよい母娘である。)


当時の母は、私が勉強ができないだけで、罵り、物を投げ、ヒステリックをおこした。他所の子と勝手に比較しては、出来が悪い、産まなければ良かったとしきりに言った。

そして、時には私の外見を詰り、昔のママの方が綺麗だったと、お前の鼻は鷲鼻で魔女みたいだ、糸目で可哀想だと言い、どれだけ痩せていた時でも太っていると唆し、ことごとく外見に対する劣等感を与えたのだった。


あれはどうしてだったのかと
今となっても思う。
きっと鬱か、ノイローゼだったのだろう。

真相はわからないが、
とにかく、当時の私は、頭が良くない私はダメな子だ、美しくない私は存在する意味が無い。私が愛されないのは、私が何も持っていないからだ、なにもかも他人より劣っている人間だからだと本気で思っていた。

あのときから、自分なんかこの世に存在する価値のない人間だと、誰からも必要とされない人間だと、自尊心を奪われて、自己肯定感をなくし、呪われていたのだった。


そんな私の初めての恋人は、
「お前より俺の推しのアイドルのが可愛い」と軽率に言い、別れ際には「偏差値が10違うと会話って成り立たないんだよ」と言って、私の心を黒く塗りつぶした。

ほんの少し大人になると、
私を性的に搾取しようと近づく人達が現れ、お前の価値などそんなものだと、心を踏み荒らしては去っていった。(幸い、私はこれ以上傷つきたくないので、拒否できる人間だった)


いつも辛くて苦しい、
暗い人間だったように思う。

でも、 今、私の近くにいる大切な人は
いつでも「貴方が1番美しいよ」と言ってくれる。太っても「太ってもいいよ、100キロまで大丈夫。ベッドは狭いけど」と笑ってくれる。

彼に出会って、私は初めて
精神的に安心できる場所を見つけた。


そうして、ようやく気がつくのだ。


私の心は
私はずっと愛されたかった
ずっと誰かに認めて欲しかった
と叫んでいたのだと。

私が自分ですら分かっていないまま
無意識に渇望し、求め続けた愛は、
赤の他人で、人種すら違う人間が
初めてくれた。

全く違う文化圏なのに、自分の美の基準と違っても美しいといってくれる。若さや美しさという性的魅力がなくても、体型が変わっても、どんな私でも素敵だと肯定してくれて、美しい人と呼んでくれる。

自分を愛してくれる誰かという存在に出会ったことで、私は失っていた自尊心を
取り戻し、母の呪いからほんの少し逃れることが出来た。



そう、ほんの少し。
この話はもう少し続く。


今まで触れてこなかったが、
私の美の基準は、大きな目、スっと高い鼻、ちょうどいい大きさの口、しっかりとした顎というパーツを持つ人だ。芸能人でいえばローラや長谷川潤、ペネロペ・クルスのような少しエキゾチックな顔立ちが理想である。


私の美の基準は、私とは全くの正反対だが
私の大切な人は、もうほとんどそんな顔立ちである。

そんな彼だからこそ、
もし、いつか子供ができたら、きっとこの人に似て可愛い子供が生まれるに違いないと思う。

しかし、それと同時に、

もし自分の悪いところが子供の容姿に遺伝したら?自分と同じように、外見に対する劣等感を背負わせるのだろうか?
もし、可愛くなかったら、私は自分の子をきちんと愛せるのだろうか?という不安がものすごい勢いで押し寄せてくるのだ。

母と同じことはしないと思いつつも、
唐突に自分の中のモンスターに出逢ってしまったことで、私は自分自身が恐ろしくてたまらなくなった。


そんな話を、俳優の先輩にした時に、
「お母さんもきっとそうされてきたのかもしれないね」と言われ、驚いた。

私は、母が自分にした事の裏側に
母がどう育ってきて、心に何を抱えているのか、それが自分とどう関係しているかなど、考えたこともなかったのだ。

先輩は、「呪いが続いていく、この状況を、あなたが断ち切るんだよ」と強く言ってくれた。この言葉がどれほど私を救ったか。

その後、私は自分にかかった呪いに
愛着障害と名前があることを知るのだった。

呪いに打ち勝つというのは、
生きてきた人生と向き合う、大変な作業である。何に傷つき、どう感じたのか、ひとつひとつ丁寧にトラウマに向き合い、辛かったねと自分を抱きしめてあげる行為だ。

正直、まだ完全には向き合いきれていないし、油断すると、ふとした瞬間にすぐ顔を出すのが劣等感だ。そして、他人からの心ない言葉に今でも自尊心を奪われてしまう。

でも、誰もが羨むような美しいパーツをもっていなくても、上手く生きられなくても、どんな私でも素敵なのだと自分自身を赦して、愛してあげたい。

他人のモノサシに惑わされず、
自分のモノサシにも囚われることなく、
私もあなたも美しいと言いたい。


綺麗事ではなく、
そんな強さこそが真に美しいと、
今は心から思うのであった。




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