第1章 誰も乗り越えてはならない──青森県立美術館 立石遼太郎
意味作用の行き来は、《ファーンズワース邸》がそうであるように、いわばタネもシカケも現わされているにもかかわらず、生まれるイリュージョンとしてある。
ぼくたちは、表面しか見ることができない。しかしその表面から、ぼくたちはいつも、実際には見えていない裏側を想像している。裏側とは、そのものの実際のあり方である。ぼくたちは、その表面からいつも、そのものの実態を想像する。
(中略)レトリックつまり説得術を発動させるには、見えが揺るぎなく、微動だにしないで、ある虚構を演じきらなければならない。
青木淳「見えの、絶え間ない行き来」『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS 〈2〉青森県立美術館』INAX出版、2006
*太字筆者
0 「見えの、絶え間ない行き来」
この引用から察せられる通り、「見えの、絶え間ない行き来」は、建築とフィクション、その両者の関係が描かれている。しかし、“フィクションとはなにか”という設問の答えが書いてあるかといえば、事態はそれほど簡単ではない。テキストはあくまで《青森県立美術館》(2005)で考えられたことを読者に伝えるためにある。
一方、この連載は建築とフィクションの関係を考えることを目的とする。フィクションを通じて、果たして建築はおもしろいのかということを検証することが目標だ。
第1章では、青木淳について考えることでフィクションという言葉を整理したい。同時に、青木淳の建築物──とりわけ《青森県立美術館》に付随する“ある独特のわかりにくさ、厄介さ”の正体を、フィクションを通じて解き明かしたいと思う。
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