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言葉にしてきた先には


帰省。意外と涼しい。キャミワンピース2枚しか持ってこなかったのであまりの涼しさに驚いている。
自分の瞳を見て、月夜を思い出すことがある。


久々に本を買った。出版されると知った時から楽しみにしていた本だった。初版はサイン本を数量限定で販売してくれる著者だったので有楽町の書店でサイン本を取り置きしてもらい、帰省前に東京駅へ行く道すがら購入してきた。普段詩を書く人のエッセイ本というのは言葉の伝え方、愛の書き方がそれはもう上手なことで、「私はこれを書きたかったんだな」と、烏滸がましくもたまに思う。

そういえば、詩集を買ったのは大学生に入ってからだった。考えてもみれば、どうして今まで詩集を買ってこなかったのだろう。こんなにも言葉が、言葉の羅列が、そこから生まれる意味が、路が、光が、想いが、好きだったというのに。

初めて手に取り読んだ詩集は金子みすゞだった気がする。小学校の、図書室とも言えない一教室、いかにも子ども部屋のようにカラフルな床保護マットが敷かれていた、窓からの光がやけにきらきらと見えた、少しだけ埃っぽい図書室。そんなノスタルジーを思い出せた自分に、少し驚いた。


未来へと歩いて行く際、きっと過去など必要のない場面も多くあるのだろう。私なんかの場合は、過去の自分にさえ引っ張られてしまうだろうから、きっと今の自分の内側ともっとしっかり向き合うべきなんだろうけれど、それができれば多分もっともっと「良い」人間に成れているような、なんとなくでしかないけれど。
それでも私はやっぱり癖付いたように過去の自分が書いた文章を見返してみる。言葉の羅列に込めた想いを、祈りを、黙然と思い出してみる。

泣き虫だったな、傷ついていたな、それでも愛していたな。大切だからやるせなくて、怒ってしまいたくて、うまく言葉にできなくて、だけれど、どうしても言葉にしたかった。今この時を言葉にできなくて、私はいつ言葉にするんだろうと、言葉にするしかなかった。決してそれは嫌な気持ちではなく、強迫観念でもなく、私の中の強い光だった。

そうだ、私は言葉に光を見ていた。言葉で、光を編んでいた。言葉は私のすべてではないけれど、私の人生だった。振り返ってきた言葉に、こうしてまた大切な感情を揺り起こされる。これを軌跡と呼ばずして、なんと呼ぶのだろうか。





あたりまえは、あたりまえではない。それは、判っている。それは、ずっと前から世界にとって自明のことだ。
だから、あたりまえではないあたりまえのことを、あたりまえだと思えるように、私はずっと努力をしていたい。その奇跡に甘んじることなく、それがずっとあたりまえで存り続けられるように。厭わず、惜しまず、いつか亡くなってしまうそれを、自身の手で失くしてしまわないように。

まださ、青いまま、足掻かせてよ。




帰省してこんなことを思うなんて、今年は随分とセンチメンタルな秋だ。私もまだまだ健やかに育っていく。日々は止まない。想いは止まない。そうして言葉にしてきた先には、貴方の言葉の先には、何がありますか。


たどり着いた先に在るものが、逢うものが、祝福であると、信じて。



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