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月と齢


最近やけに月が綺麗だなと思う。いや、前から綺麗だったけれど、なんだか、さらっとしていて、すべすべしていそうな、輪郭の柔らかい、やっぱり綺麗な、淡麗な、月。

毎年、齢を重ねたときはnoteを開いて何かしらの言葉を綴っていたというのに、今年に関してはもう一ヶ月も経ってしまった。元々文章を書くことは好きだったし、今も好きなんだけれど、きっとそこには満たされない気持ちがあったことも事実で、それが少しずつ少しずつ、満たされてきているからこんなに書かずにいられたのかな、と。
私はやっぱり虚な気持ちだったり負のエネルギーを美しく昇華するためにnoteを書いていたんだな、悲しくて愛おしい言葉達だったんだな、今もずっと私は私のnoteが好きです。二十三に、成りました。


あつい、さむい、を、繰り返して、愛おしい、苦しい、悲しいね。たくさん知って、光は、貴方は、幸福は、私だって、触れていていいんだと、何度も許されて、受け入れられて、その度に私は泣いて、きっと貴方は、幸福をくれるたびに私の好きな顔で笑っていた。

ピンク、黄色、青、白、紫、甘いチョコスプレー、恋人を知るということは愛を知るということで、でもきっとそうではなくて、言葉も約束もいつかの砂の城、それでも撫でて触れた貴方の頬、一つネジの外れた私の脳、からくりはいとも簡単で、ただ貴方を愛していただけだ。それが、人生だっただけだ。何も変わらない。

貴方を愛していたこと、ずっとずっと奇跡の日々だった。




変わらないことだってあると思っていた。一般的に変わり得ることも、私は変わらないのかも、なんて、別に自分が特別だとかそういう話ではなくて、頑固で変われない部分が確かにあると解っていた。けれど、春が巡り、夏を憂い、秋を惜しみ、冬を越え、出逢いと別れに押し流されそうになりながら歩いてきた道はきっと、花びらの舞う美しい人生だったのだろう。誰かに感謝され、愛され、祈りのように歩いてきたのだ。暗い道であったかもしれないけれど、花はいつだって私の人生に降りそそいでいたのだろうし、横を見渡せば青く澄み波の煌めく海が見えていた。ふと花びらが私の手元に落ちてきた時、その海が見えた時、さざ波の音が聞こえた時、「もう少し生きてみてもいいかもしれない」と、思えてきたのだろう。だから、ここまでやってこれた。


もう二十三になった。社会人になった。自身が学生から抜け出していくこと、想像もしていなかった。漠然と嫌だった社会人、薄水色の記憶として揺れる学生時代の揺らめき、今はね、自分から歩むことができている。有体な言葉だけれど、いろんなものに救われてきた。そしてこれからも、そのすべてが私を救ってくれるように。守ってくれるように。進んでいこうと思う。生きていこうと思う。





またねって、ちゃんと言えるようになったよ。




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